2017年10月9日(月)
インドの巨大な繊維工場の内部を描いたドキュメンタリーである。
パンフレットの「作品解説」にはこう記されている。
「ありふれた建物の外面とは裏腹に、その内部はどこまでも続く労働搾取の森である。カメラはベールに包まれた工場の内部へと深く分け入っていく。長回しで捉えられた労働者たちの姿は、劣悪な環境、鳴り止まぬ機械音と相まって、その場に立ち込む匂いや空気までも体感として観る者に突きつける。巧みなカメラワークが、その光景に“醜”を超えて皮肉にも“美”を宿らせる一方、そこにはグローバル経済下で続く不当な労使関係、子どもを含む出稼ぎ工場労働者を取り巻く過酷な現実が生々しく凝縮されている」
窓もほとんどない巨大な空間の中で、機械から延々と吐き出される繊維と格闘する労働者たち。ランニングシャツ1枚の男たちの肌から汗が噴き出る。休みないその動きに労働者たちもまるで機械の一部のように見える。
仕事のない1000キロ以上も離れた他州から家族を養うためにやってきた出稼ぎ労働者たちは驚くほど安い賃金で12時間も働き続ける。労働組合を作って労働条件を改善しようと試みるリーダーたちは、経営者によって文字通り“消される”。
一方、経営者は監督のインタビューに、「賃金を上げたり労働時間を短くしても、労働者たちは酒や遊びにその金と時間を使い果たし、“怠け者”になってしまうだけだ」と言い放つ。
労働者の1人が監督に問う。「この映画で、私たちの状況はよくなるのか?」と。映画にはその答えはない。
同じ質問を上映後のQ&Aで問われたラーフル・ジャイン監督はこう答えた。
「私が労働者になんと答えようと無益だと思います。映画を制作していると言っても無意味だろうし、その質問にまったく答える言葉もなく、無力です。『ドキュメンタリー映画は彼らを救うことはできるか』という質問に、私はその答えはわかりません。アート(芸術)は世界を変えることができるか。活動家から見れば、それは何の役にも立たないかもしれません。しかしアートは観客に考えさせることができます。アートは世界の一つの見方を提示し、それによって観客に考えてもらうことはできます。現実を前にしてどういうことを考えるか、その現実に立ち向かうもう一つの見方、立ち向かい方をアートは提示することができるのではないかと思います」
社会の悪や不条理、理不尽さをドキュメンタリー映画で暴き告発しようとするとき、撮られる相手から同じような問いを投げかけられた体験を持つドキュメンタリストは少なくないはずだ。私自身、パレスチナのガザ地区で住民にこう言われたことがある。
「君たちジャーナリストたちは“ハゲタカ”だ。私たちの不幸を写真や映像、記事にして金を得る。しかし君たちが写真や映像で撮ったからといって、俺たちのこの酷い状況は変わったのか。これまで数えきれないほどのジャーナリストたちがガザへやってきて、写真や映像を撮っていった。でも私たちの生活は何一つ変わらないじゃないか。ただ君たちが俺たちの不幸を題材して金をもうけただけじゃないか。君たちは“ハゲタカ”だ!」
私は反論できなかった。たしかに私たちには“ハゲタカ”の部分もある。「社会の悪や不条理、理不尽さをドキュメンタリーで暴き告発する」とカッコいいことを言っても、取材される側にとって、「何の役にも立たない」かもしれない。では私たちの仕事は無意味なのか。
私たちの仕事には“ハゲタカ”の部分があることは認めながらも、私たちがその現実を伝えていくことは無意味ではないはずだ。私たちの報道によって、その人たちが強いられている酷い現実を他の人たちに“伝え知らせる”ことはできるはずである。もちろん、私たちは助けを求めている人に問題解決の「処方箋」や「特効薬」を提供することはできない。しかし解決のために不可欠な最初のステップである「問題を知る」ことにはいくらかの役には立てるはずだ。そして何よりも、“伝える側”も映画制作を通して、心を“豊か”にし、人間として成長する機会を得るはずだ。
中国河南省の街にある視力や聴力に障がいを持つ子どもたちが通う特別支援学校の日常生活を描いたドキュメンタリー映画。こんなに美しい映画を、久しく観る機会がなかった気がする。映像の美しさ、そして障がいを抱える少女たちの懸命な姿の美しさである。隣席の中国人らしい若い女性は、上映中ずっと泣いていた。
亀が大好きで、飼っていたその亀が死んでいく様子を涙ながら語る盲目の少女。その娘は、祖父母が障がいを持つ自分を嫌っていると告白し、「そんな祖父母を見返すために、北京の大学を目指します」と告白する。同じく目が不自由で、歌が大好きな少女は、「学校を出たら、私は歌う仕事がしたいけど、物乞いとして路上で歌うのではなく、劇場で歌える人になりたい」と涙ぐむ。「他の子には障がいはないのに、私は障がいを持って生まれた。神さまは不公平です」と訴える少女。また他の少女は、「障がいを持っているから私は人間として劣っていると周りからみなされるが悲しいです。一生けんめいに勉強して、自分は決して劣ってはいないことを証明したいんです」と語る。
ただこの映画は、「かわいそうな子どもたち」という「健常者」の上から目線、「同情」を誘おうとする湿っぽいナレーションもない。ただ画面に映し出されるのは、与えられた障がいを引き受け、明るく前向きに、そして懸命に生きる一人ひとりの子どもたちの姿だ。それが実に美しい。子どもたちを“尊厳”をもった人間として、美しく描きだそうとする作り手の強い思いが画面全体にほとばしっている。
十数年にわたって視覚障がい者のドキュメンタリーを撮り続けてきたスー・チン、ミーナー両監督は、その思いを「監督のことば」にこう表現している。
「(特別支援学校の)子どもたちは身体的に重い障がいを背負っていると受け取られ、しばしば大変心配され、同情を寄せられる対象となるのだが、実際は決してそうではない。私たちのカメラがとらえた子どもたちの明るく輝くまなざしと美しい心の世界、一人ひとりの子どもの生き生きした生命力と強い意志の力は生命への賛美であり、あるいは現実社会のなかで生きる『健常な』人びとにとっては、心を癒し、浄化してくれるものだと言えるだろう」
ドキュメンタリーには、前に書いたような「伝えずにおくものか!」という不条理、不正に対する“怒り”と共に、「これをどうしても伝えたい!」という“感動”がとても大切なのだと、この『カーロ・ミオ・ベン(愛しき人よ)』のような映画に出会うと痛感する。その“感動”のためには“作り手”に、撮る相手を単なる「素材」「道具」とみるのではなく、“尊厳”“愛情”をもって描き出そうとする意志が不可欠だろうし、その作り手の“感動”を、情緒に溺れず、できる限り形を壊さずに観る人に伝える冷静さと技量が要求されるだろう。この映画が「十数年にわたって視覚障がい者のドキュメンタリーを撮り続けてきた」監督から生まれた作品であることに「なるほど」と思う。
観る者の心を揺さぶり、「心を癒し、浄化してくれる」こんなドキュメンタリーを私も目指したい。
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