2017年10月13日
山形映画祭の インターナショナル・コンベンション部門 で上映される欧米人監督の作品の中には、映像も構成・編集もひじょうに洗練され完成度の高い作品が多い。
しかし私には、「なぜこんなテーマでドキュメンタリー映画を作るのか」「この作品で何を伝えたいのか」と理解に苦しむ作品も少なくない。この3日間で観た映画の中でも、『自我との奇妙な愛』(オランダ)『ニンホアの家』(ドイツ)『カラブリア』(スイス)などがそうだった。確かに映画としての「作品性」「完成度」は高い。しかし「偏った、狭いドキュメンタリー観に凝り固まっている」私には、それは重大な価値判断の基準ではない。それらの映画には「これを伝えずにおくものか!」という作り手の強い思いも伝わってこないし、『カーロ・ミオ・ベン(愛しき人よ)』のような感動も呼び起こさない。「うまくできている映画だな。でも時間の無駄だったなあ」と思ってしまうのだ。
タイトルに引かれて観た『航跡(スービック海軍基地)』(アメリカ・フィリピン)は、上記した欧米映画のような「洗練さ」や「完成度」とは程遠い映画だった。編集・構成があまりに粗雑なのだ。米軍基地の土壌汚染とその人体への影響?(映画の中ではその関連性が十分に証拠立てられておらず、説得力に欠ける)、アメリカによる残忍で狡猾なフィリピン植民地化の歴史を伝えようとするテーマの重要性はわかる。それに引かれて観たのだが、その伝え方があまりにも雑で稚拙だ。汚染問題の被害の描写の直後に、その関連性は何も説明されないまま植民地化の歴史を挟み込む。ジャン・ジャンヴィト監督はそれによって両方を関連づけているつもりだろうが、観ている側には、両方を結びつけようとする監督の強引さだけが鼻につく。監督の経歴を観ると、これまでさまざまな国際的な賞を受賞しているベテランのドキュメンタリー映画監督だ。しかしこの作品を観る限り、とても「優れたドキュメンタリスト」とは私には思えない。この映画に5時間近くを費やすぐらいなら、「アジア千波万波」の優れた作品をもっとたくさん見ればよかったとひどく後悔した。
今回、山形映画祭で大賞を受賞した『オラとニコデムの家』は、自閉症の弟、妻に逃げられたアルコール依存症の父親、そして甲斐甲斐しくその2人の面倒を見る14歳の少女オラの3人家族の日常を追ったドキュメンタリーだ。アンナ・ザメツカ監督は「監督のことば」に「無条件の家族愛と、それを永続させる絆についての映画」信じがたいほどのつながりについての実存的な物語であり、それは愛する家族の絆となって表れる」と書いている。
この映画にいちばん驚かされるのは、まるで劇映画を見ているかのように、登場人物たちがほとんどカメラを意識せずに、その日常生活が至近距離で細かく映し出されていることだ。
なぜ、こんな映像が撮れたのだろう。
複数の言語を話すポーターの父親に駅で偶然に出会ったのがきっかけだったとザメツカ監督はQ&Aで語った。好奇心に導かれてその家族を訪ね、2人のきょうだいに出会う。その瞬間、この家族の映画を撮りたいと強い衝動を覚えたというのである。
それにしても、外部の人間(カメラマンと監督)がその狭い部屋にいることをまったく感じさせないほどの家族との親密な関係を、ザメツカ監督はどうやって築き上げただろうか。長い時間をかけて何度も通ううちに、自閉症の少年ニコデムも、姉のオラも私を受け入れてくれたと監督は説明するのだが。
撮ろうとする相手との信頼関係をどう作り上げるかは、ドキュメンタリー映画の成否の決定的な要素となる。それは監督の人柄、熱意、誠意などいろいろな要素から出てくるものだろう。私はこの映画自身と同時に、それを成し遂げたザメツカ監督自身に強い好奇心を抱いた。女優かモデルと見紛うほどに美しいこの若い女性監督の何が、多感な14歳のオラと自閉症の少年の心を開いたのかと。
山形国際ドキュメンタリー映画祭は今年で5回目となる。そして少し見えてきたことがある。私は来るたびに、胸を揺すぶられる映画に出会う一方、失望し怒りさえ覚える映画に行き当ってしまう。私はそれを正直にコラムにぶつけてきた。
だが、今こう思うようになった。
「自分が失望したり怒ったりする映画は、その作品自体に問題があるではなく、自分が求めるドキュメンタリー観に合わないだけなのだ」と。つまり、この映画祭でたくさんの作品を観続けるなかで、「自分が求めるドキュメンタリーとは何か」という輪郭がだんだんと明瞭になってきたということだ。もっと平たく言えば、さまざまドキュメンタリーを観るなかで、自分の“好み”がはっきりしてきたということである。
だから審査員たちが自分たちの“好み”で選ぶ作品と、私が「素晴らしい」と思う映画には当然ズレが出てくる。前回、大賞を受賞した作品も、今回、優秀賞を取った「孤独な存在」(中国)も、私は観続ける気が失せて途中で抜け出した。山形映画祭で賞を取るかどうか、さらに、映画祭の候補作品となり上映される作品に選ばれるかどうかは、審査員たちの“好み”次第であり、それは必ずしも作品の優劣と一致するものでないということがだんだんわかってきたのである。
大切なのは、受賞する作品かどうかではなく、観た自分がいいと思うかどうか、自分の“好み”――それは自分自身のこれまでの人生経験の中で培ってきた価値観、人生観、思想、自分が求める生き方に近いかどうかという基準のことだが――に合うかどうかということだ。そして自分の“好み”に合うかどうかを吟味することは、自分がどういうドキュメンタリーを目指していきたいか、もっと言えば、どういう生き方をしたいのかを確認する営為でもある。つまり私たちは映画を観ながら、実はその映画という“鏡”に映し出される“自分自身”を凝視しているのだと思う。この映画祭の面白さは、それを見極めるために必要な多種多様、玉石混淆の映画をいっぱい私たちの前に差し出してくれることだ。
いやあ、山形国際ドキュメンタリー映画祭は実に“懐深い”映画祭である。
→ 次の記事へ
ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。