2018年3月6日(火)
(写真:ガザ攻撃で避難した少女/2014年8月/撮影: 土井敏邦)
福島で取材したOさんから、先日メッセージが届いた。
「連日のシリアのニュースに何が出来ることがないかと思っています。『あなた達の沈黙が僕達を殺すのだ』という少年の言葉が胸に突き刺さって仕方がありません。私に何ができますか?」
私はその問いかけにハッとした。私自身の今の有り様を問い質された気がしたからである。何日か考えあぐねた後、私はこう返信した。
私は長年、ジャーナリストとして、パレスチナの現場を取材し、日本に伝え続けてきました。ですから、講演や大学での講義の場で同じ質問を何度も受けてきました。
とりわけ2014年8月、イスラエル軍による空爆と地上侵攻で死者2250人、負傷者1万人を出したガザ攻撃を現場で取材し、テレビ番組や雑誌記事、ドキュメンタリー映画などを通して、国内で報道した直後、多くの方々から「犠牲になっているあの人たちのために、私たち日本人は何ができますか。何をすべきですか」という質問を私は何度も投げかけられました。そのとき、私はこう答えてきました。
「まず自分自身が、日本から地理的にも精神的にも遠いパレスチナの現場で今起こっていること、その現状をもっと知ること、そしてそれを周囲に伝えること、それを知った一人ひとりが、何が出来るかを考えることだと思います。
例えば、現状をもっと知るために周囲の同様に関心を持った知人、友人たちに呼びかけて学習会や上映会などを開き、自分自身がさらに深く知り、より多くの日本人に知らせていくこと、実際に現地で住民のために支援をしている日本国内のNGOやNPOなどから情報を収集し、支援すること、メディアやSNSを駆使して政府に『この惨状を止めるために政府は動け!』と働きかけることはできます。
しかし何よりもまずやるべきことは、遠い現地で、私たちと同じように愛する家族をもち、将来の夢を持ち、自分も家族も、そして友人や知人たちも、幸せに暮らしたい、暮らしてほしいと願う“私たちと同じ人間”に起こっていることを“知る”こと、そしてその“痛み”と“無念さ”を想像し、それに“共感”しようとすることです。
それは現地の彼らのためだけではありません。私たち自身が“他者の痛み”に共鳴することで、 “人間としての豊かさ”を培い、“深く生きる”ことにつながっていくと私は信じています」
私自身は、ジャーナリストとして「現場へ行き、その現状を日本に伝える」という仕事をすることで、「自分は何がしかことをやっている」と自分を納得させることができます。しかしそれは自分が30年近く通い続けている「パレスチナ」に関してです。
シリアのあの惨状について、私はまったくOさんと同じ立場です。何もできていません。毎日毎日、「パレスチナ」や「フクシマ」を映像や文章で伝える仕事に追われて、シリアのあの惨状はテレビや新聞、SNSの情報で垣間見る程度しかできていません。
今の私には、「パレスチナ」でやってきたように、自ら現地に出向き、現場を取材し、伝えるジャーナリストとしての仕事をやることが、時間的にも、経済的にも、そして精神的にも余裕がなく、できません。
ですから、先に書いたようなパレスチナに関する私の意見は、シリアに関しては私自身が実行できていないのです。Oさんのメッセージに「私自身が考えなければならないテーマです」と返信したのは、そういう私自身の“自己矛盾”を突きつけられた気がしたからです。
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