2018年10月27日(土)13:30~18:00
東京大学(本郷)
最新ドキュメンタリー映画『アミラ・ハス ―イスラエル人記者が語る“占領”―』上映
2018年10月18日(木)
アミラ・ハスの取材に数日同行してみて、「占領地特派員」としての彼女の日常が少し見えてきた。
とにかく多忙だ。彼女は週に3~4本の記事を本社に書き送っている。「記事」と言っても、日本の新聞記事のように短くはない。インターネットでイスラエルの有力紙『ハアレツ』の英語版でアミラの記事を読んだことのある人ならご存じだろうが、日本の雑誌記事1~2ページ分の長さだ。しかも具体的な実例を詳細に書き込んでいく。実際に現場を歩き、当事者に長時間、深いインタビューから生みだされる記述だから説得力がある。
また今アミラが力を入れているガザ地区の電力事情の記事は、電話インタビューで情報を集めて書き上げられている。彼女自身はガザに入れないからだ。「特派員」として駐在した3年間で、アミラはガザ地区に幅広い、また深い人間関係を作りあげた。ガザ地区を離れてもう20年近く経った今もその人間関係は続き、彼らが重要な情報源となっている。7月10日のインターネット版に掲載された最新のガザ電力事情に関する記事も、ガザの旧友に2時間近く電話インタビューして書き上げた。
アミラのインタビュー現場に立ち会う機会があった。ベツレヘム市で暮らす、パレスチナ人と結婚したアメリカ人女性たち3人へのインタビューだった。とりわけこの数カ月前から、彼女たちはイスラエル当局からの滞在ビザの延長が難しくなった。「不法滞在」状態になっている女性もいた。もし本国アメリカに一時帰国したら、もう戻って来られなくなり、家族は離散してしまう可能性もある。
インタビューは英語だった。早口の英語でアミラに訴えるアメリカ人女性たちの言葉の要旨をアミラは素早くパソコンにメモっていく。テープレコーダーは使わない。パソコンの手は動いていても、彼女の目はインタビューする相手に向いている。複数の相手が同時に次々と訴えてくると、メモを取ることに追われ、相手の顔など見ている余裕などないものだが、アミラはメモを取ることよりも、きちんと相手に向き合い、その言葉を引き出すことに主力を置く。それはよほど自分の記録力に自信がないとできないものだ。相手の話に不明瞭な点が出てくると、即座に流暢な英語で聞き返していく。
その日の取材がすぐに翌日記事になるわけではない。滞在ビザの制限によってヨルダン川西岸の「外国人」を追い出そうとするイスラエル当局の狙いを、アミラは数カ月かけて断続的に取材し続けている。いくつもの実例を積み上げて記事にするのだという。
アミラの一日は取材と執筆に終わらない。パレスチナ人の対話集会に呼ばれたり、イスラエル人の団体に招かれて講演したりと休む間のない。
「入植者を含めイスラエル人との対話、非暴力の活動によって、両者の和平を切り開く」ことを目指すパレスチナ人の平和団体の対話では、アミラはかつて記事にした、ある入植地による周辺の村の水資源の収奪の実例をあげ、占領と入植地政策そのものがパレスチナ人社会から利益を得る“システム(構造)”であることを説き、その平和運動のナイーブさを鋭く指摘した。
ガザ地区に近いステロッド市では、アミラはイスラエル人の左派グループに招かれ、占領の実態を講演した。「戦争」になればいつもガザ地区からのカッサム・ロケットの標的にされ、反パレスチナ人感情が強いといわれるこの町でアミラの話を聞こうとする団体があることに驚いたが、こういう状況にいるからこそ、「パレスチナ人はどういう状況下にあるのか。なぜ攻撃してくるのか」をどうしても知りたいのだろう。ステロッド市内だけではなく、周辺のキブツ(集団農場)などから数十人が集まり、アミラの話に聞き入った。
午前中に1つ取材を終え、ガザに関する記事を書き終えたアミラは、午後4時半過ぎにラマラから2時間近く運転してステロッドに着いた。午後7時半から始まった講演と質疑応答は午後10時過ぎまで続き、その間、アミラはずっと語り続けた。やっと終わると、2時間半かけてラマラまで運転して戻る。そして翌朝、また取材……。60歳を超えたアミラのこのエネルギーにいったいどこにくるのか。
「イスラエルがパレスチナ人にやっているこの理不尽、不正義に対する“怒り”よ」
そしてこう付け加えた。
「私には『定年退職』ってないのよ。『ハアレツ』を辞めても、死ぬまで西岸に残って書き続けるでしょうね。これからの人生はそれ以外に思い浮かばないの」
アミラの行動の一部を見ていて、気づいたことがもう一つある。取材などを通して一度築いた人間関係をとても大切にするということだ。それは「ジャーナリストだから」というより、彼女の生来の性格、ホロコースト生存者だった両親から受け継いだなのかもしれない。
ガザ時代のパレスチナ人の友人の娘(19歳)が4年前に白血病を患った。しかしガザでは治療できない。その娘の命を救う道は、イスラエルの病院で治療を受けるしかない。しかしガザ住民がイスラエルに出ることは容易ではない。アミラは「著名なイスラエル人ジャーナリスト」である立場を最大限駆使してイスラエル民政府に掛け合うなど、その許可を得るために奔走した。その結果、その娘と看病する姉(20歳)は1月にやっと許可を得て、東エルサレムの病院宿舎に落ち着くことができた。いまその娘はパレスチナ人の病院宿舎から、近くにあるイスラエルのハダッサ病院に通って治療を続けている。
ガザ出身の姉妹が見知らぬエルサレムで孤立しないように、アミラはイスラエル人の友人たちに呼びかけて、彼女たちを支援するグループを作った。現在、このグループのメンバーたちが交代で姉妹を訪ねて世話をしている。ある者は姉妹にヘブライ語を教え、ある者は小旅行に連れ出す。アミラ自身も時間が許す限り、姉妹を訪ねて世話をしている。
ベツレヘムでの取材が終わりラマラに帰る途中、アミラは姉妹が暮らす病院宿舎を訪ねた。もう夜も8時を過ぎていた。姉妹はアミラの突然の来訪に驚き、抱き着いた。流暢なアラビア語で冗談を言って、アミラは娘たちを笑わせ気持ちを和ませる。見知らぬ土地での孤独感と、病状の不安で落ち込んでいるに違いないこの姉妹を元気づけようとするアミラの姿は、取材中に見せる厳しい表情とはまったく違う“優しいお母さん”のような優しい表情だった。ガザ時代にこの姉妹に初めて出会った頃は、彼女たちはまだ幼い少女だった。そして十数年が経った今も、アミラは友人の娘たちを自分の身内のように大切にしている。
元ハマス・メンバーのガザ時代の旧友がどうしても海外に出なければならない急用ができた。しかし当然のことながら、イスラエルもパレスチナ自治政府も彼がガザを出る許可、またラマラなどパレスチナの都市に立ち寄る許可を与えなった。アミラはイスラエル民政府に何度も掛け合い、やっとガザを出る許可を引き出した。しかしパレスチナの都市に立ち寄れない友人は街と街を乗り継がなければならない通常のタクシーを使うのも難しい。そのためアミアは自らガザ地区の出入り口「エレツ」まで車で迎えにいき、そのまま数時間かけて自ら運転してヨルダンとの国境アレンビーまでその友人を送り届けた。
「多忙なあなたがどうして、そこまでやるのか」と問う私に、アミラはさらりと言ってのけた。
「友だちのためなら、そのくらいのことは当然やるわよ。だって大切な友だちもの」
深いインタビューから書き上げられるアミラの記事の背景には、単に小手先の「ジャーナリストとしての技術」ではない、人間関係を何よりも大切にする彼女の生き方そのものがあるのだということを、私は初めて知った。
〈「日々の雑感」2017年7月13日版 再掲載〉
2018年10月27日(土)13:30~18:00
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