2018年10月27日(土)13:30~18:00
東京大学(本郷)
最新ドキュメンタリー映画『アミラ・ハス ―イスラエル人記者が語る“占領”―』上映
2018年10月20日(土)
アミラ・ハスを迎えるための準備は、多岐にわたった。講演会場の手配、各地の講演主催者側との打ち合わせ、記録のための手配、メディア対策、沖縄・広島・福島での取材先の手配、宿泊先、食事、移動手段、アテンド(付き添い)……。とても私独りでは対応できない。「土井敏邦・パレスチナ記録の会」のメンバーたちやボランティアらがフル回転して、その準備・手配のために駆け回った。
とりわけメディア対策には頭を痛めた。アミラは、取材するジャーナリストの自分が取材されることを極端に嫌う。日本での取材要請に対しても、個々の取材で同じ内容を繰り返し話すのを嫌がり、記者会見なら受け入れると言う。
アミラの「取材嫌い」を私たち自身も来日直後に思い知らされることになる。「記録の会」のスタッフは、アミラ来日の記録を残すために成田空港に到着したアミラを撮影しようと待ち構えていた。しかしゲートから出てきたとき、カメラに気づいたアミラは、「カメラは止めて!」と彼を叱責した。
そうは言われても、来日の記録を残すことは、支援をしてくださった方々に対する私たちの大事な責務である。その一方、このことでアミラとの関係がこじれては長丁場の講演ツアーはできなくなる。私はアミラを説得するしかないと思い、なぜ記録を残す必要があるのか懸命に説明した。その結果、講演や各地での取材の様子を撮影されるのは仕方ないが、移動や自由時間の撮影はやめてほしいと彼女は要求した。
ただアミラの講演映像だけでドキュメンタリー映画にするのは難しい。私は目立たない小型カメラでアミラがあまり意識しない距離と位置から、それとなくカメラを回すようにし、彼女が嫌がって制止したら、スイッチ切ることにした。
しかし広島で、ついにアミラが私の撮影に怒りを爆発させた。
原爆資料館を訪ねたとき、食い入るように展示物や説明文に見入っていたアミラを、私は離れた場所で、人影の間からカメラを回していた。彼女はそれに気づき、不快に感じていたのだろう。資料館を出て、平和公園の慰霊碑に向かうアミラを撮影しようとカメラを構えたとき、アミラは怒って慰霊碑とは違う方向へ歩きだした。
私は私で、ムッときた。ホロコースト生存者の両親をもつアミラが、もう一つの大量虐殺であるヒロシマの慰霊碑とどう向き合うのか、私はどうしても記録せねばと考えていた。しかしアミラにそれを拒絶されてしまったのだ。
「私はあなたを単に講演だけのために、また日本の見学や観光のために招聘したのではない。ホロコーストの悲劇やパレスチナ人の “占領”を熟知するユダヤ人でありイスラエル人であるあなたが、日本で起こったこと、いま起こっていることにどう反応するのか記録し伝えることも重要なテーマだったのだ。だからこそ、沖縄や広島、福島への旅を準備したのに」と。
アミラは自分が撮影されることも、また自分が登場する映像作品も見ることも極端に嫌がる例は他でも体験した。
アミラを日本に紹介するために、私は現地で撮影した映像を元に15分ほどの紹介映像を制作した。日本各地でのアミラの講演の前に、その映像で現地での彼女のジャーナリスト活動とその思いを知ってもらうためである。しかしアミラはその自分の映像を観たがらず、上映が終わるまで会場に入ろうとはしなかった。
旧知のNHKディレクターがアミラを取り上げた「こころの時代」という番組の制作のために、日本滞在の後半、作家、徐京植氏との対談を企画した。「NHKの番組で紹介されることが、彼女のジャーナリスト活動、引いてはパレスチナの占領の実態を日本社会に知らせるのにどれほどに大きな意味があるか」を私は懸命に説得し、アミラはやっとテレビ番組出演を受け入れた。結果的に、素晴らしい番組が出来上がり、周囲の反応はすこぶるよかった。
しかし来日から9か月後に私がエルサレムでアミラと再会したとき、番組の感想を聞くと、日本から送られてきた番組のDVDは「観ていないし、観るつもりもない」と答えた。
なぜアミラは自分が取材・撮影されたり、自分の映像を観ることをこれほどまでに嫌がるのか。
私は敢えてそれは直接聞くことはしなかったが、日本の講演のなかで、アミラはその理由のヒントになるような発言をしたことがあった。
東京での講演2日目のことだった。私は2002年4月に起こったイスラエル軍によるジェニン侵攻について言及した。イスラエル軍の激しい攻撃によって難民キャンプの中心部が瓦礫の山となり多数のパレスチナ人が殺害されたこの事件の直後、アミラは現場に入り、つぶさに取材した。その記事に私が受けた衝撃はすでに前述した通りだ。
イスラエルへの怒りと憎しみが渦巻く事件直後の難民キャンプに、どうやってイスラエル人のアミラが侵入し、あれだけの取材ができたのか。私が講演会の中でアミラに訊いた。すると、アミラはこう答えた。
「私はテルアビブからジェニンに向かったのではありません。同じように砲銃撃にさらされていたヨルダン川西岸のラマラ――私はそこで暮らしています――から現地に向かったんです。私はそのとき、砲撃されるパレスチナ人と同じ立場にいました」「キャンプの中に入って行くとき、イスラエル兵に狙撃される不安があったので、怖かったけど、『私は武装していない!撃たないで!』とヘブライ語で叫びました。私は自分が『イスラエル人』であることを最大限に利用しているんです」
そして最後にこう付け加えた。
「土井、私はヒーロー(英雄)なんかじゃないのよ」
アミラは自分が「英雄視」されることを、そして自分が「英雄」になったかのように錯覚してしまうことを何よりも恐れて、それを避けようとしているのではないか。つまり取材されカメラを向けられる立場になることで、また撮影され映像化されて番組の中で「英雄扱い」されることで自分自身が実際そうであるかように勘違いして、「英雄」「スター」のように振舞ってしまうことを恐れているのではないか。そういう“人間の弱さ”を彼女は熟知し自覚しているが故に、自分はジャーナリストとして、目立たない“伝える黒子”に徹しようとしているのかもしれない。
周囲から注目され「英雄視」されることは心地よい。人間の本性だろう。ジャーナリスト、とりわけフリーランスのジャーナリストは、「生き残る」ためにも、周囲から注目され目立とうとしがちだ。例えば自分がどれほど危険な環境で、「真実」を伝えるために「勇敢に」「献身的に」取材活動をしているかを強調したり、自分が有名人とどれほど近い関係にあるかをやたらとひけらかしたりする。しかし危険地帯、とりわけ戦場で本当に危険なのは、ちょっと現場に行き、いつでもその場から逃げられる「ジャーナリスト」ではなく、ずっとその現場に生き続け、そこから逃げたくても逃げられない住民たちであるにも関わらず、「戦場ジャーナリスト」「戦場カメラマン」と平然と名乗り、自分の「勇敢さ」をやたらと強調したがる「ジャーナリスト」は少なくない。
アミラはパレスチナ占領地の現場で、そういう「ジャーナリスト」たちを嫌というほど見てきたはずだ。そして自分自身も、「危険な占領地」で、しかも「加害国の一国民でありながら、被害者パレスチナ人の真っ只中に独りで暮らし取材活動を続ける『勇敢な』ジャーナリスト」ともてはされてきたはずだ。だからこそ、そういう「評価」に染まってしまい、慢心してしまう、自身を『英雄』だと勘違いしてしまう“人間の弱さ”を誰よりも自覚しているのかもしれない。
2018年10月27日(土)13:30~18:00
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