2019年1月12日(土)
広河隆一氏と初めて会ったのは、1981年3月だったように記憶している。もう40年ほども前だ。当時、広島大学に提出した卒業論文「パレスチナ人の基本的人権に関する一考察」を読んでもらうために上京し、喫茶店で広河氏にあった。
広河氏のウィキペディアには、「土井が広島大学においてパレスチナ問題に関する卒業論文を執筆した際に、当時の広大にはパレスチナを研究している教員がいなかったため広河は事実上の指導教官として土井の卒論を指導し」と書かれているが、それは事実ではない。
大学時代、私は1年半休学して世界を放浪した。その旅の途上で、半年近くイスラエルのキブツ(集団農場)に滞在した。その期間中にキブツのボランティア仲間に誘われてガザ地区を訪ね、初めて「パレスチナ難民」に出会う。それが私にとって“パレスチナ”との出会いであり、あの時の衝撃が、その後の道を決める転機となった。
帰国後、大学での専門学科を「国際関係論」に変え、「パレスチナ問題」の研究者のいない大学で、イスラエルの新聞や「パレスチナ問題」の研究誌を海外から取り寄せ、また日本で「パレスチナ」について書かれた書籍を貪り読み、独りで卒業論文を書いた。
その日本の書籍の中でも、広河氏の著書『ユダヤ国家とアラブゲリラ』(草思社・1971年)、『パレスチナ 幻の国境』(草思社・1976年)は重要な参考書となった。そういう経緯で卒業直後に上京し、書き上げた論文のコピーを広河氏に「読んで批評を聞かせてください」と手渡した。それが広河氏との出会いだった。
それから半年後、当時、ある中東専門雑誌の編集長だった広河氏から、「雑誌の編集記者をやってみないか」という誘いの電話が入った。当時私は、上京したものの本来やりたいことからかけ離れた旅行雑誌の編集集団でアルバイトをして腐っていた。そんな私は、広河氏の誘いに飛びついた。結局、それが現在の仕事の出発点となった。
私が編集記者に加わってすぐ、広河氏は雑誌編集長の職を離れてフリージャーナリストに戻った。その直後の1982年9月、ベイルートで「サブラ・シャティーラ虐殺」の現場に世界で最初に入って取材し、この事件を全世界に伝えた。この大スクープで広河氏は世界的なジャーナリストとして脚光を浴びることになる。
その後の活躍もめざましかった。レバノンやイスラエル内、占領地でのパレスチナ・イスラエル問題の報道、スリーマイル島やチェルノブイリでの原発事故の報道、エイズ問題、そして福島原発事故の報道……。
報道だけではなかった。「パレスチナの子どもの里親運動」や「チェルノブイリ子ども基金」、福島の原発事故後には被曝した福島の子どもたちを保養させる「NPO法人沖縄・球美の里」を立ち上げるなど、実際に戦争や原発事故の被害を受けた子どもたちを救援する活動にも尽力した。
私は一ジャーナリストとして現地を取材し記事や映像で伝えるのが精いっぱいで、とても被害者たちの救援活動をする能力も余力もなかった。現場で「お前たちは、俺たちの被害を食い物にして金を稼ぐハゲタカだ」という罵声を浴びせられたこともある。そんな私は、事件を伝えるだけではなく、被害者たちの救援活動までやり遂げる広河氏の一ジャーナリストとしての、いや一人の人間としての行動がまぶしかった。
写真、文章さらに映像のどれを取っても一級の才能をもち、月雑誌『DAYS JAPAN』を発行後は、編集長として、パレスチナ問題や原発問題、エイズ問題に限らず、一般のマスメディアがタブー視する日本内外の重要な諸問題にも鋭く切り込んでいく、その報道姿勢に圧倒されてきた。そんな広河隆一氏は、私にとって「とても敵わない、凄い先輩ジャーナリスト」だった。
広河氏の「女性問題」については、早い時期から私は周囲から耳にしていた。しかし私はそれに触れることを意図的に避けてきた。それは私自身の個人的な幼児体験からくる“嫌悪感”からだった。
私の父は、私が5歳の時に外に愛人を作って家を出た。母は父が残した借金返済に追われた。その母の暗い悲しい表情が私の脳裡に焼き付いている。その後の残された私たち4人の子どもと母の悲哀、苦悩の記憶が一種のトラウマとして、還暦を過ぎた今なお私の中に深く刻まれている。そんな体験が、私の「女性問題」を耳にすることへの嫌悪感となっているのだと思う。
広河氏の「女性問題」をよく耳にするようになって、私は広河氏から距離を置くようになった。そして「プライベートな面では近づきたくない存在だが、そのジャーナリストとしての仕事は遠くから見て学び励みにする」――ジャーナリスト・広河隆一は、私にはそういう存在となった。
2002年にJVJA(日本ビジュアルジャーナリスト協会)の立ち上げを広河氏から呼びかけられたとき、私はすぐに賛同した。きっかけは、2002年春、パレスチナ・ヨルダン川西岸で起こったイスラエル軍の再侵攻だった。
2002年4月、ジェニン難民キャンプがイスラエル軍に包囲され大量殺戮と破壊が起っているという情報に、広河氏をはじめ日本や海外の多くのジャーナリストたちが一斉にジェニンへ向かった。私もその一人だった。当時、まだイスラエル軍に難民キャンプが包囲され、ジャーナリストが中に入ることは困難だった。私たちはなんとか兵士の監視の目をかいくぐってキャンプ内に入ろうとその機会をうかがっていた。広河氏も侵入を試みたが、兵士に発見されて戦車に追いかけられ、必死に民家に走り逃げ、やっと難を逃れた。私も侵入しようとして一時的に兵士に拘束された。
そんな私たちの体験から、広河氏が「フリージャーナリストは団結して自らを守らなければならない」と会の立ち上げを提案し、私と古居みずえさんを加えた3人が立ち上げ人となって会が発足した。ジャーナリストとしての実績、知名度、年齢差(私より10歳年上)などから広河氏が会のリーダーとなり、その活動を引っ張った。当時、出会ってすでに20年が過ぎていたが、実際にジャーナリストとして活動を共にすることはそれが初めてだった。会の方針や活動について広河氏と対立したこともあったが、ジャーナリストとして学ぶことも少なくなかった。
発足から6年後の2008年、広河氏は『DAYS JAPAN』発行で多忙になることなどを理由にJVJAを去った。間もなく、私も映画『沈黙を破る』制作に専念するためなどの理由から、実質的に会の活動から遠ざかった。
その後は、現在にいたるまで広河氏とはほとんど接触はなかった。その間も広河氏はドキュメンタリー映画『パレスチナ 1948・ナクバ』の制作や『DAYS JAPAN』発行などジャーナリストとしての仕事の領域を広げていった。私は遠くから「凄いなあ」と感嘆しながら仰ぎ見ていた。
広河氏とは疎遠だったが、それでも氏の「女性問題」は、間接的に時々、私の耳にも届いた。映画の編集に関わった人たちや、『DAYS JAPAN』編集部の内情を知る人たちから、「広河氏が編集部に出入りする多くの若い女性たちを誘い、男と女の関係を持っている」という噂だった。私はいやな感情を抱きながらも、「広河氏のプライベートなことに関わらない」という以前からの姿勢を変えなかった。「『男と女の問題』は私のような第三者には内情はわからないし、親しい関係でもない自分が干渉することでもない」という考えだった。その根底には、トラウマになっている「女性問題」への嫌悪感があったと思う。
「広河氏との付き合いが長く、彼の『性暴力』を聞き知っていたはずなのに、土井は何もせず黙認した」という私への批判があるかもしれない。
ジャーナリストとしての実績の差、年齢差もあり、私は決して「親しい対等の関係」ではなく、広河氏の私生活について「口を挟む」ほどの間柄ではなかった。
『週刊文春』の記事を書いた田村栄治記者は、その後のネット記事の中で、『DAYS JAPAN』編集部に十数年、外部協力者として関わり、性被害の噂をたびたび耳にしながらも「何もしなかった」理由として、「下手に介入すれば、広河氏から名誉棄損だと言われたり、関係が悪化したりするのではないかという懸念もあった」と告白している。
また同記事の中で、田村氏は、被害女性たちの「変なうわさが立つと広河さんが仕事をしづらくなってしまう。そう思うと、誰にも相談できませんでした」「その人は、尊敬する広河さんに悪評が立つのは避けたいという思いだったんでしょう」という声を紹介している。
私が広河氏の「女性問題」に目を逸らした背景に、自分の中に同様の心理もたしかにあったと認めざるをえない。
しかし何よりも、私は、広河氏の「女性問題」が今回『週刊文春』で報道されたような、あれほど酷い「性暴力」であることは全く知らなかった。だからあの記事を読んだとき、私自身、大きな衝撃を受けた。私が長年抱いていた「広河隆一」というジャーナリストのイメージがガラガラと音を立てて崩れた。
これからの私の考えは、「『週刊文春』の記事は事実」という前提で書く。広河氏自身が「謝罪文」の中で、あの記事の内容を否定しなかったからだ。
「ジャーナリストなら、自分で取材して事実かどうかを確認すべきだ」という批判もあろう。しかし今の私は、被害者たちに直接会って確認することも、広河氏に確認することも、記事の内容の衝撃が大きすぎて心理的にできない。その点で「ジャーナリスト失格」と言われるなら、反論はしない。
私がいちばん驚き衝撃を受けたことの一つは、『DAYS JAPAN』の編集長として、「『日本軍慰安婦』問題」など「女性の性被害」の問題を特集し、誰よりも女性の人権、尊厳に敏感であるべきはずの広河氏自身が、加害者になってしまったという現実だった。
これはあくまでも私の推測だが、記事が公になるまで、おそらく広河氏自身、自分が「性暴力の加害者」だったという自覚はなかったのではないか。それは「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって」(『週刊文春』)という言葉に象徴的に現われていると思う。
広河氏は、若い時から紛争地報道のトップランナーとして注目され、多くの写真集や記事、書籍も高い評価を受けて、「土門拳賞」など数々の賞を受賞し、フォトジャーナリストとして「著名人」「大御所」「重鎮」となった。さらに『DAYS JAPAN』という画期的な写真雑誌を創刊し、社会、環境、人権、政治などの諸問題に果敢に切り込んでいく「社会正義を体現するジャーナリスト」として尊敬される存在であった。そんな広河氏は「自分に若い女性たちは憧れ、魅力を感じ、恋愛関係を望んでいる」と自惚(うぬぼ)れ錯覚していたに違いない。広河氏は、「それは『恋愛』であり、『性暴力』でも『人権侵害』でもなく、『女性の性被害』を追及し報道してきた自分とはまったく矛盾しない」と反論するかもしれない。
しかしそこにまったく欠落しているのは、相手女性の心理への“想像力”である。
「フォトジャーナリストになりたいという夢を持ち始めた」女性たちが、「雲の上の上のすごい人で、神様のようなイメージ」(『Buzz Feed News』)を抱く広河氏に強要される性関係を敢えて拒めなかった時の混乱と恐怖と衝撃、そのために沈黙せざるをえなかったその苦悩を、広河氏自身は、あの記事で被害女性たちの告白を突き付けられるまで想像できなかったのではないか。その想像力の欠如と、「相手女性は自分に憧れ、関係を望んでいる」という思い上がりが、広河氏から「それは性暴力だ」という自覚を奪っていたのではないか。
だが、それは広河氏だけではなく、私自身の中にもあったことに思い当たるのだ。
私が人づてに聞いた広河氏の「女性問題」「男と女の問題」について、「第三者の自分には内情はわからないし、口を挟むことではない」と突き放した心理の奥に、「男と女の問題なのだから、男性側だけではなく、女性側にも問題があったのではないか」という意識が私の中にあったと思う。つまり「雲の上の上のすごい人」の男性に性関係を強要される女性たちの混乱と恐怖と衝撃、長年誰にも打ち明けられず、抵抗し拒めなかった自分を責める苦しみ、10年経ても癒えない彼女たちのその“心の傷”“痛み”を、私自身が想像できないでいたのだ。あの記事の中の女性たちの告白に、私にそのことを突きつけられた。
『週刊文春』の記事から2週間ほど経った1月9日、我が家に「通販生活」(2019年春号)が届いた。その中に「落合恵子の深呼吸対談」のゲストとして広河氏が登場する。タイトルは「ジャーナリストは権力者が隠す加害の事実を世界に伝えるために戦場に行くのです」。その中に次のような広河氏の言葉がある。
「そもそもジャーナリストの仕事とは、人間や命や幸福、尊厳が脅かされているときに『そこで何が起こっているのか』を広く伝えることです」(P.180)
「我々がジャーナリストとしての活動できるのは、人間の幸せや命を守るために、人々の知る権利をゆだねられているからにすぎません。そのことを忘れてしまったら、目の前で溺れている人を救うのではなく、シャッターを切り続けることになってしまう。『ジャーナリストである前に人間である』ということに尽きると思います。」(P.183)
「性暴力」が報道される前なら、スッと受け止められるこれらの言葉も、今では多くの読者から「なんだ、偉そうに! 言ってることとやってることがまったく違うじゃないか!」と罵声を浴びせられるだろう。
今回の報道で広河氏とその仕事を知る多くの人が、「これまでの広河氏の仕事や発言が完全に色褪せてしまった」と感じているはずだ。
それは広河氏とそのジャーナリストとしての仕事だけではない。ジャーナリズム全体にも深い影を落とす結果をもたらした。「ジャーナリストっていうのは、口では『正義だ』『人権だ』『人間の尊厳だ』なんて立派なことを言うけど、裏ではまったく矛盾したことを平気でやる連中だ!」というふうに、「ジャーナリスト」のイメージを大きく損なう結果を招いているにちがいない。広河氏が強い影響力を持つ著名なジャーナリストであるがゆえに、その打撃はさらに甚大である。
とりわけフォトジャーナリズムへの影響は深刻だろう。広河氏がフォトジャーナリストを夢みる女性に「キミは写真が下手だから僕が教えてあげる」(「週刊文春」)とホテルに呼び出し性暴力におよんだ事実、つまり「著名なフォトジャーナリスト」という立場を利用した性暴力は、「フォトジャーナリズム」への冒涜とも言える。
私は「一ジャーナリスト」「一人間」としての自分自身を振り返るとき、清濁併せ持つ“ドロドロした人間”であることを改めて自覚せざるをえない。様々な欲望や邪悪で醜悪な部分を抱え、自身が醜いハゲタカのように思え、深い自己嫌悪に陥る時がある。その一方で、「理不尽に虐げられ、傷つけられ殺されていく人たちのことを伝えずにおくものか!」と涙をこらえながら必死にカメラを回す自分もいる。その両方を合わせ持ったドロドロした存在、その丸ごとが自分である。それは私だけではないはずだ。この文章を読んでくださっている一人ひとりも思い当たるだろう。広河氏だって、そうだろうと思う。
記事に書かれている広河氏の行為は、明らかに“性暴力”である。それに対すして広河氏は社会的な制裁を受けるべきだし、自身が被害女性一人ひとりにきちんと謝罪し、その罪を償うべきある。
しかし一方で、この事件のために、広河氏の全人格と、ジャーナリストとしてのこれまでの実績を全否定する動きには私は同意できない。広河氏がこれまで成し遂げたジャーナリストとしての、また社会活動家としての仕事、実績は否定されるべきではなく、きちんと評価され記録され、記憶されるべきだと私は思う。日本だけではなく国際的なジャーナリズムの歴史に残る広河氏の仕事と、それを成し遂げた氏のジャーナリストとしての精神は抹殺されてはならないと考えるのだ。それは「広河氏の業績を強調することで、氏が犯した性犯罪を免罪する」ことでは決してない。ただ「紙の一部が黒いから、紙全体が黒」とする空気はどうしても納得できないのだ。
それに広河氏の仕事の全否定は、広河氏がこれまで闘ってきた“権力” 側の「思う壺」であり、彼らを利し、増長させることになる。
一例を挙げるなら、福島の原発事故の後、「安全神話」のもとで原発再稼働を強行しようとする国や東京電力に対し、広河氏は被曝の深刻さと危険性を詳細な調査報道を通して伝え、警鐘を鳴らし続けてきた。もしそんな重要な仕事をもこの「性暴力」報道のために全否定するなら、いちばん喜ぶのは国や東京電力など“権力”側だ。
社会活動家として広河氏が立ち上げた「チェルノブイリ子ども基金」による現地施設や「NPO法人沖縄・球美の里」もこの問題で見放され、そこで救われてきた、またこれから救われるべき子どもたちも見捨てられていいのだろうか。
かつてジャーナリスト・広河隆一氏の仕事を仰ぎ見、目標としてきた後輩ジャーナリストとして、この「性暴力」事件で広河氏の全人格と、これまでのジャーナリストとしての、また社会活動家としての広河氏の実績が全否定されようとする動きに、私は抗(あらが)う。たとえどんな非難を浴びようともだ。
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