2019年10月13日
今年もまた山形国際ドキュメンタリー映画祭に来た。
当たり外れの多い映画祭だが、「なんだ、こりゃあ!観た時間を返せ!」と叫びたくなる映画については、思い出したり書いたりする時間がもったいないから、今回は極力「悪口」は止めて、ひたすら、感動し私自身にとって“収穫”のあった映画についてだけ、コラムで記録に残しておく。
パンフレットの作品紹介には、こう記してある。
「アフガニスタンでタリバン指導者についての作品を作ったことで死刑宣告を受けた映画作家夫婦が、子どもたちとともに国を出、危険な密出入国を繰り返し、欧州へ逃れるまでの3年間にわたる旅の記録。家族がスマートフォンを駆使して撮影された日々の映像には、逃避行の不安と家族の親密さがリアルに描き出されている」
そして「監督のことば」にハサン・ファジリ監督はこう語る。
「祖国の地を追われた私たち一家は、外部からの力により、否応なしにあらゆる報告へと投げ出された。その途上で見舞われる脅威を守るという重圧に、父親としての私は、いまや困憊し切っている。しかし、映画作家としての私から見れば、そうした放浪や厄介事は魅力的でもあり、それゆえ私たちは、家族全員がこの映画の被写体となったのだ」
まず驚ろかされるのは、スマートフォンでこれほどしっかりとした映像が撮れるということだ。たしかにブレは気にはなるが、映像の質は私たちが使うプロ用のカメラとほとんど遜色はない。もちろん密入国という命懸けの行動時に、かさばり重い通常のカメラなど持てないだろうし、それを構える余裕もないだろう。
ハサンはその利点を「スマートフォンなら家族全員が簡単に使えるし、かさばることもない。またこれなら、すぐに撮影態勢に入ることもできる」と書いている。
父親が他の家族を撮る一方、妻が夫を、10歳ほどの幼い娘が両親を撮るということを可能にしたのもスマートフォンだからである。
この映画で私が最も驚嘆し感動したのは、ハサンの“撮る”ことへの執念である。夫婦喧嘩で泣きながら訴える妻、寝起きで泣きべそをかく末娘。
そして圧巻は密入国で国境の野を命がけで走って越えるシーン。走りながら、ハサンはそれを撮影し続けるのだ。揺れる映像、ゼーゼーという苦しそうな吐息の音。それがかえってその場の緊迫感を観る者に伝える。
撮る心の余裕もないはずの緊急時にもカメラが回すハサンのその執念に私は圧倒された。
そんなハサンが撮れなかったシーンがある。
避難所で末娘が行方不明になる。「誘拐されたかもしれない」と両親は必死に娘を探すが、夜になっても見つからない。ハサンの中で不安が確信になりかけたとき、やっと娘が見つかった! 安堵と喜びのなかで、ハサンはふと我に返る。「こんな絶好のシーンを、自分はなぜ撮影しなかったんだ!」と。
3年に及ぶ命懸けの逃避行の中で、ハサンは、「自分にとって映画作家であることの意味」を改めて自問する。そしてこう言うのだ。
「撮ることは、私が生きること」
その言葉とこの映画に、私は自身の“ドキュメンタリストとしての姿勢と生き方”を問われた気がした。
「お前は『プロのドキュメンタリスト』を名乗りながら、『撮ることは、生きること』と言えるほどの、仕事をしてきたのか、しているのか。そんな生き方をしているのか」と。
観終わって、私はしばらく席が立てなかった。
ミッドナイト・トラベラー
Midnight Traveler
アメリカ、カタール、カナダ、イギリス/2019/87分
監督:ハサン・ファジリ Hassan Fazili
→ 次の記事へ
ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。