2020年4月18日(土)
460ページの大著である。『東京新聞』に長期連載された片山夏子記者の記事「ふくしま原発作業員日誌」が大幅に加筆され出来上がった。
原発事故から9年の間に、私は多くの著作を読み、ドキュメンタリー映像を観てきたが、これほど「フクシマ」の現実に衝撃を受けた作品はあまりなかった気がする。
一人の女性新聞記者が9年にわたって、爆発事故で破壊され、高い放射線量を放出し続ける福島第一原発(イチエフ)の現場で働く作業員たちの声を丹念に拾っていく。
野田佳彦首相(当時)による「事故収束宣言」(2011年12月)、安倍晋三首相による「状況はアンダーコントロール」発言(2013年9月)、田村市などから開始された各避難区域の解除(2014年4月)……これまでメディアで大々的に報道されてきた「原発事故『収束』へ確実な歩み」は、実際、原発事故の現場で高い放射線量の中で格闘する作業員の目からは全く違っていたことを本書は教えてくれる。
ある作業員は、片山記者にこう怒りをぶつける。
「本当かよ。事故収束のわけがない。今は毎日、大量の汚染水を生み出しながら、核燃料を冷やしているから温度がたもたれているだけ。安定とは、ほど遠い。(高線量で)ろくに原子炉建屋にも入れず、どう核燃料を取り出すのかわらないのに」(本書)
そして片山記者はその宣言後に現場で起こったことをこう報じる。
「収束宣言を境に作業員の労働環境や待遇の悪化がより顕著になっていく。現場での作業は緊急作業ではなく、通常作業になったとされたことでコスト削減が進められ、工事契約も競争入札が進む。そして作業員の危険手当が打ち切られたり、給料も減額されたりした」(同書)
さらに片山記者は、野田首相がベトナムやヨルダンへの原発輸出を進めていたこと、国内の他の原発の「再稼働」へ動いたことを報じ、「政府の動きには、原発メーカーや大手ゼネコンに原発事業から撤退されないための、原発関連企業の不満解消の意味もあったのではないか」と書く。
安倍首相の「状況はアンダーコントロール」発言に対しても、作業員は戸惑いと怒りを露わにする。「現場は汚染水漏れで大騒ぎになっているのに、首相は『まったく問題ない』と世界に向かって言い切った。本当にやばいことが起きても、今後は発表されなくなったりするのではないか」と不安を語る作業員。他の作業員は「海外に『おもてなし』と言って招致したようだが、日本は今、そんな状態なのか。福島のことを切り捨てられたように感じた」と怒り、「お・も・て・な・し」と滝川クリステルのまねをする自分の子どもを思わず大声で叱ってしまう。「いらつくのをどうしても抑えられなかった」のだ。
さらに避難指示の解除に対しても作業員の一人は、「まだ帰れる状態ではない。除染もちゃんとされていないし。インフラが整わないうちに、国は当初住民を帰そうとした。ありえない。国は2020年の東京五輪までに、避難者をみんな帰そうとしているのを感じる。世界に日本はこんなに早く復興したと言いたいんだろうな」と語るのだ。
どの“目線”から見るのかで、「フクシマ」はまったく違ってみえてくる。どこから見ればいちばんその現状を描くことになるかといえば、言うまでもなく“現場”だ。その現場を最も熟知するのは、そこで高線量の放射能に被ばくする危険を冒しながら働く “原発作業員”たちである。そこに目をつけ、片山記者に取材を指示した『東京新聞』原発班キャップの、ジャーナリストとしての“勘”“洞察力”は凄い。
現役の原発作業員の取材がいかに難しいかは、一度でも取材を試みたことのあるジャーナリストなら痛感しているはずだ。所属する会社や元請け会社や東電から報道取材への厳しい箝口令(かんこうれい)が出ていて、「取材を受けているとばれると、仕事を失う可能性がある」からだ。
私自身、ドキュメンタリー映画『福島は語る』(完全版)の制作のために「原発労働者」をほんの少し取材したことがある(第六章「原発労働者」)。そこに登場するのは、すでに退職を決めていて、取材を受けても失業の不安のない作業員たちであり、本書に登場するようなバリバリの現役の原発作業員に接触し取材することはできなかった。だからこそ、片山記者の取材力にまず圧倒されるのだ。
しかもその取材は深い。単に現場の様子や作業の内容だけではなく、その「原発作業員」の家族や 私生活の内情、 胸の奥底に鬱積した心情を引き出している。つまり“人間”をまるごと描いてみせるのだ。
「危ないからやめて」と妻から哀願される作業員、何時間もかけて家族に会いに帰ってもけんかばかりの者、原発現場で働くために家族と離れて暮らすある作業員は「どうしてっかなー」と子どのことばかり考える。放射能を怖がる娘に「帰ってきて」と何度も言われる作業員。久しぶりに帰った家で息子を抱っこしようとすると、「パパ嫌いだ」と小さな手でぎゅっと顔を押しやられ、泣かれた作業員は、家族の気持ちが離れ始めたことを実感する。原発現場の仕事を見届けたいという気持ちと、家族と一緒にいたいという思いの狭間で心が揺れ、妻とぎくしゃくする……。
私たちが「原発作業員」と顔の見えないマスで描く時にはまったく見えてこない一人ひとりの“人間”の顔が浮かび上がってくる。
その個々の人間たちが、放射性物質を防ぐために通気性がほとんどない防護服に身を固め、真夏の暑さの中で次々と熱中症に倒れていく現実、規定の被ばく線量を越えたために簡単に解雇され、使い捨てにされる現実、高い放射線量のために白血病やがんに冒されても、会社に「因果関係が証明できない」と切り捨てられる現実、会社による給与や危険手当の中間搾取……。
それでも、作業員たちは「イチエフに戻りたい」と言う。日当が特別にいいからではない。逆に日当はどんどん下がっていき「イチエフで働くうまみがなくなった」(作業員)。一方、五輪工事で湧く東京では日当はイチエフより2~3割高い。そのため原発作業員たちも東京へ流れていく。しかしその作業員たちが五輪工事現場に違和感を抱き、戸惑う。「東京にいると、福島での原発事故がなかったかのように感じた」「食べていかなきゃならないとはいえ、先にやるべきことがあるのに、俺はここで何をしているんだろう」「福島のことがめちゃくちゃ気になる」と片山記者に吐露するのだ。
「ただ金稼ぎのために、作業員たちはあえて危険なイチエフで働いている」と、私たちは考えがちだ。しかし片山記者は「イチエフの仕事を最後まで見届けたい」「自分たちで故郷をなんとかしたい」「イチエフで働いてきた者としてやるしかない」「福島の人間だし、今も頑張る同僚がいるから」という原発作業員たちの矜持と、もう一つの“本音”を聞き出している。
「フクシマは終わった」と勘違いし、「さあ、東京オリンピックだ!」と浮足立っていた多くの日本人たちに、9年経った今も高い放射線量のままで、いつまた大量の放射能が放出されるかわからない危険なままのイチエフが、過酷な現場で必死に働くそんな原発作業員によって、かろうじて「安定」が保たている現実を、本書は突き付けるのだ。
著者はどうやって「取材に答えたら、仕事を失うかもしれない」と警戒するはずの現役の原発労働者たちから、これほど“人間”と “本音”を引き出せたらのか――「フクシマ」を取材した体験を持つ同じジャーナリストとして、私は強い衝撃と、“嫉妬”に似た感情を抱いてしまう。登場する作業員の中には9年にわたって片山記者が関わり続けた人もいる。「取材者と被取材者」という関係を超えた信頼しあう人間関係を築き上げて初めて成しえた結果だろう。
「『若いあいつが辞めないように怒らない親方もいるけど、俺がいなくなったときや死んだりしたときに、そいつらをかばうやつがいなくなったら、どうなるのかって思うと、俺は言うべきことは言おうと。俺がいなくても、一人でやっていけるように変わってくれたら、俺はうれしい。人間は変われるし、変われるから面白い。』ノブさんの話を聞いていると、救われる気がする。取材というよりも、一人の人間として教えてもらっているのだと思う。帰り際、ノブさんから言葉をかけられてうろたえる。『ありがとうね。福島のことを忘れず、ずっと来てくれて』」(同書)
取材した相手から、「ありがとう」という言葉をかけられることは、取材する者にとって最高の褒美だろう。とりわけ、一歩間違えば相手の生活の糧を奪ってしまう危うい取材ではなおさらである。9年という長期取材で、複数の取材相手と「一人の人間同士」の関係を築きあげた片山記者の“人間性”に感服する。
一方で、フリーランスの私は、新聞記者という組織ジャーナリストの強みを思い知らされる。例えば、作業員が現場での問題を記者に訴える。記者はすぐに紙面で記事化し社会に訴える。問題が公にされ東電や元請け会社、政府は社会の批判を恐れ改善に動かざるをえなくなり、情報を提供した作業員たちの環境は改善される。彼らは報道してくれた記者に感謝し、さらに信頼を強めていく。
その一方、パレスチナで取材することの多い私には、現場の問題を遠い日本で報じても現場の当事者たちの問題を改善させる影響力はまったくない。
「お前たちはハゲタカだ! 俺たちの不幸を飯のタネにしているだけじゃないか。お前が報道したって、日本人は俺たちのために動いてくれるのか。俺たちの状況が一つでもよくなるのか!」
そんな罵声を浴びたことがある。どんなに危険を冒して取材しても、「ありがとう」の言葉をかけられることはほとんどない。
しかも、取材した記事や映像を新聞やテレビという媒体で伝える場を持つ組織ジャーナリストと違い、私のようなフリーランスには取材したことを伝える媒体は何一つ保障されてはいない。
そんな私は、9年間も同じテーマの取材を認められ、その結果を伝える紙面が用意され、さらにその取材のための経済的なバックアップもある片山記者のような組織ジャーナリストたちがうらやましくもある。ただ、すべての組織ジャーナリストがそんな幸運に恵まれるわけでもないだろう。片山記者のジャーナリストとしての“実力”が、そういう恵まれた環境を作り出したに違いない。
片山記者の“伝え手”としてのプロ意識にも唸った。
「あとがき」で片山氏は取材期間中に咽頭がんを患ったことを告白している。「自分でも驚くほどうろたえ、落ち込んだ」と書いているが、その時の不安と絶望感は、想像に余りある。しかし片山記者は本文の中では「病気療養中に」とさらりと触れ、がんであったことも、長い「フクシマ」取材との関連性への懸念など微塵も出さない。
また長期の原発作業員の取材で、「心も体も一杯いっぱいになって」、まったく記事が書けなくなり、知床の雪山の中を「心が空っぽになるまでひたすら歩き続け」るほど苦しんだ姿も、本文の中にはまったく見せない。
片山記者はその気になれば、自分のがん発病と長期の「フクシマ」取材を結び付けてドラマチックに語ることもできただろうし、「心も体も一杯いっぱいになっ」たことを本文の中に書くことで、原発作業員の取材の大変さを強調することもできたはずだ。
しかし片山氏は記事の中では、それらのことにストイックなまでに触れていない。自分の感情の動きを書くのは、作業員たちの言動に対する自分の素直な心情を吐露する時だけだ。だから記事の文章が湿っぽくなく、伝えるべき事実だけが淡々と適格に記述されている。無駄がなく読みやすい文章だ。
本書「ふくしま原発作業員日誌」に、私は同じジャーナリストとして実に多くのことを教えられた。取材テーマを選ぶ“目線”、取材相手との向き合い方、情熱と誠意、そして“伝え方”……。
私が「なぜ、何のために、誰に向かって、どう取材し伝えていくのか」を見失った時に、この『ふくしま原発作業日誌』は自分が原点に立ち返るための“道しるべ”として何度も読み返す著書になるだろう。
9年間という長期取材を認め、発表する紙面を用意し、記者を支援し続けた『東京新聞』の深い見識と度量と勇気に深い敬意を表したい。
そして何よりも、光が当てられることの少なかった原発作業員の言動を9年間も追い続け、伝え続けた片山夏子記者に、心からの畏敬と感謝の意を伝えたい。
ふくしま原発作業員日誌
イチエフの真実、9年間の記録
片山夏子
朝日新聞出版
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