2020年12月28日
(写真:2009年のガザ攻撃で、父親を射殺され、自らも爆弾の破片を頭部に残したままの少女 2009年1月/土井敏邦・撮影)
私がジャーナリストとして取材のためにパレスチナに入ったのは1985年5月、第一次インティファーダの1年半ほど前です。ヨルダン川西岸のある難民キャンプに隣接する民家に下宿をし、その家を拠点にして、1年半、西岸とガザ地区そしてイスラエルの各地を取材して回りました。目的はただ一つ、「ベトナム戦争のルポ『戦場の村』(朝日新聞記者・本多勝一著)のようなルポルタージュを一生に一度でもいい、パレスチナ占領地を舞台して書いてみたい」という一心からでした。そのために2年間、中東専門雑誌の編集記者となって文章修行をし、前年の1年間は、サウジアラビアで日本企業の現地駐在員として働き、資金を貯めました。
1988年に出版した最初の著書『占領と民衆・パレスチナ』(晩聲社)はその結実です。タイトルは『戦場の村』の原題『戦争と民衆』を真似たものでした。
なぜ「パレスチナ占領地」なのか。私は学生時代、「何を目指して生きていくのか」を見失い、それを探すために1年半、アフリカ、アジアを放浪しました。その旅の途上にイスラエルの共同体「キブツ」に滞在します。その時期にボランティア仲間に導かれてガザ地区の難民キャンプを訪ねました。凄まじい貧困の現場と、そこでひしめき合って生きる青年たちとの出会いが私の人生の転機となります。
「ベトナム戦争世代」でありながら、政治や社会にまったく関心のない「ノンポリ」だった私が、初めて渦中の国際問題の現場に立ち、そこで生きる人間たちを直接、肌で知ったのです。その衝撃はその後の私の進路を決定づけました。帰国後、私は大学で「国際関係論」にコースを変え、独り手探りで必死に海外から資料をかき集め、卒業論文「パレスチナ人の基本的人権に関する一考察」を書き上げました。
フリージャーナリストとして、取材目的で現地に戻ったのはそれから7年後です。
それから今年でちょうど35年になります。
この間、自分は“パレスチナ”で何を伝えてきたかと振り返ると、戦争や暴動、銃撃、暴行そのものではありませんでした。私が追いかけてきたのは、そんなセンセーショナルな「直接的暴力」ではなく、“構造的な暴力”でした。私流に表現すると、「人間が人間らしく、尊厳を持って生きていく、その生活の基盤を組織的に破壊していく」暴力です。“占領”はその象徴でした。しかし「絵になって売れる」刺激的な「直接的な暴力」とは違って、地味で、取材して持ち帰っても、なかなかマスメディアで取り上げてはもらえず、生活は困窮しました。
ただ「構造的な暴力」といっても、やはり「問題」です。この「パレスチナ報告会」で来てくださるような方は、「パレスチナ問題」そのものに強い関心を持っておられるでしょうが、大多数の一般の人は、「問題」には関心ありません。ましてや「遠い国の問題」ならなおさらです。人は自分の毎日の生活のことで頭が一杯なのですから。
“パレスチナ”を日本に伝えてきた自分のこの35年間、私はずっと「どうすれば、一般の人に“パレスチナ”を『遠い問題』として身近な出来事として伝えられるか」に考え、悩んできました。
その答えに一つのヒントをくれた一冊の本と出会いました。
『チェルノブイリの祈り』です。著者のスベトラーナ・アレクシエービッチは2015年にノーベル文学賞を受賞しました。
チェルノブイリの事故から10年後に出版されたこの本に描かれているのは、「チェルノブイリの事故」そのものではありません。「原発問題」でもありません。描かれているのは、この事故によって人生を破壊された者、人生を翻弄された者の“人間”です。
この本の冒頭にリュドミーラという消防士の奥さんの証言が出てきます。消防士の夫は事故の直後に事故現場に入り、ものすごい量の放射線を浴びて、文字通り身体が崩れていく。内臓が崩れていって、内臓が口から飛び出してくる。妻リュドミーラはそういう過酷な状況に追い込まれた夫の傍に寄り添い、夫の放つ放射線が自分自身やお腹の中の子どにどんなに危険かも顧みず、必死に看護します。リュドミーラが語るのは「原発事故」ではありません。ひたすら夫への“愛”を語り続けます。「チェルノブイリ原発事故」に対する知識も強い関心もなかった私が、激しく心を揺すぶられました。
映像も活字でも「ドキュメンタリー」には、三つの役割があると私は思います。
一つは「記録すること」、後世に残していくことです。二つ目は「伝えること」。これは本や雑誌で発表したり、テレビ番組や映画として公開することで実現します。
そして三つ目は「人の心を動かすこと」です。しかしこれが最も難しいことです。前の二つは、長いパレスチナ報道で曲りなりにもやってきたつもりです。しかし私は、「パレスチナを記録し伝えること」で、“人の心を動かす”ことができてこなかったことを今さらのように痛感します。つまり「問題」は描いてきたけど、“人間”を描き切れなったことに思い当たるのです。
「どうやったら“パレスチナ”を伝えることで、人の心を動かせるのか」――私はずっと悩んできました。そして「チェルノブイリの祈り」を読んだ時に、「あっ、こういうことなんだ!」と思い当たりました。つまり「パレスチナ問題」を描くのではなく、パレスチナの“人間”を描くことなんだ、と。そうしない限り、「パレスチナ問題」に関心を持つ人には伝わっても、普通の人たちの心に入っていかないのだ、と。
繰り返しますが、普通の人は「問題」には関心はない。しかし“人間”には関心はあります。それは「パレスチナ人」というふうにマスで俯瞰的に描かれる「人間」ではなく、「モハマド」「サイード」「アマル」といった具合に固有名詞で、等身大で、しかもその心の奥まで表出された“人間”です。人は、目の前に突き出されたそんな生身の“人間”を見つめながら、その“鏡”に自らの姿、生き方を映しだす。その時に、初めてその“人間”が観る人、読む人に迫ってくる。そして“心を動かされる”。
35年間の私のパレスチナ報道で、決定的に欠落していたのはそのことだったのではないか。では、なぜできなかったのか。
一つは言葉と文化の壁です。現地の言語もできず、生活習慣もよく知らない「外の人間」が「取材者」として、しかも短期間、現地に「腰かけ」て取材することの限界です。スベトラーナ・アレクシエービッチが「チェルノブイリの祈り」であれだけ深く“人間”を描けたのは、“被取材者”が言語や文化を共有する “ベラルーシ人”の同胞だったことも重要な要因だったはずです。
しかしそんな言語、文化の壁以上に私には “取材者”としての姿勢そのものに問題があったことに今、思い当たります。私は取材相手から「問題」を聞き出そうしていた、つまり「問題」を引き出す“素材”として相手と向き合い、言葉を引き出していたことに今さらのように気づくのです。
つまり私は、相手の“人間”を引き出し、その“鏡”に自分自身を映し出し、自分の姿、生き方を問う、そんな向き合い方をしてこなかった。そんな自身の在り方への切迫感、謙虚さがなかった。だから向き合う取材相手の心の中に入っていき、胸の内を吐露させることができなかったのだと思います。それを“人間力”というなら、私にそれが欠落していたのです。
もし、取材相手と向き合い言葉を引き出す中で、自分自身を問い、自分の魂を“豊か”にできなかったとすれば、また“パレスチナ”と関わることが、自分が“深く生きる”ことに繋がっていないとすれば、これほど経済的な見返りの少ない「フリージャーナリスト」として35年間も“パレスチナ”と関わってきた意味がどこにあったのか。自分にとって、この長い“パレスチナ”との関わりは何だったのか――いま改めて自問しています。
(2020年12月13日「最新パレスチナ報告会―米新大統領でパレスチナはどうなるのか」でのスピーチに加筆しました)
ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。