Webコラム

日々の雑感 398:
指導者の“言葉の力”

2021年1月21日

 バイデン新大統領の就任演説をBBCで観た。
 真摯に、そして懸命に、“和解”と“団結”を国民に訴える。その言葉と姿に、私は涙がこみあげてきた。
 「受け」を狙った浮ついた言葉や見かけだけのパフォーマンスでない、「この危機的な状況にある祖国アメリカとその民主主義をなんとしても立ち直さなければならない。大統領として自分はその仕事に残りの人生を賭けるのだ」というバイデンの真摯な思い、必死の想いが、あの言葉と語る姿にこもっている。これが“指導者”なのだ、“指導者の言葉”なのだ。

 一方、なぜ日本の指導者たちの言葉は、これほど聞く者の心に響かないのだろう。どうして、あれほど「眠気を誘う」のだろう。
 それは“自分の言葉”ではないからだろう。自分の心の底から湧き上がってくる“言葉”ではないのだ。他人が書いた作文(スピーチライターが指導者の想いと魂を“言語化”するスピーチとは違い、内容そのものを創作してくれる官僚の作文)を読み上げるのに精いっぱい、だから読み間違えてしまう。そんな「言葉」が聞く者の心を動かすわけがない。

 それは言葉を発する「政治家」の“在り方”“生き方”に問題の源があるのかもしれない。「首相や大臣の席争い、権力・利権争い」「党利党略」に頭の中はいっぱいで、「自分を捨ててでも、国民のために自分はいま何をすべきなのか」というビジョン、信念、情熱は二の次、三の次、または欠落。

 しかしそんな「政治家」を生み出し、「政治家ってそんなもんさ」と半ば諦め、受け入れているのは私たち国民なのだ。つまりあの程度の「政治家」「指導者」しか生み出せないのは、私たち国民の民度がその程度だからということなのだろう。この“民度の低さ”は、風土のせい? 教育のせい? 歴史のせい? 精神文化のせい? ……私にはわからない。

 新大統領の就任演説のように、あるべき“指導者”の姿を見てしまうと、やはり自国の政治指導者たちのビジョン、理想、哲学の“貧弱さ”または“欠落”を嫌というほど思い知らされる。そしてそんな指導者たちしか生み出せない私たちの“民度の低さ”をつくづく思い知るのだ。

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