Webコラム

日々の雑感 403:
『MINAMATA』と『Fukushima 50』

2021年10月5日

映画『MINAMATA』のメッセージ

 「水俣」やユージン・スミスに関するドキュメンタリー映像や写真、著作に触れたことのある人は、海外で撮影されたこの映画の中のいくつものシーンに違和感を抱くにちがいない。
 「風景や住居のたたずまいが違う」「モデルとなっている実在の人物とイメージが違う」「子どもたちが日本人ではない」「『入浴する母子』の写真撮影とユージン・スミスの負傷の時系列が逆だ」……
 しかし「水俣」について全く予備知識のない人、とりわけこの映画が主なターゲットにしているだろう欧米など海外の観客には、ほとんど気にならないに違いない。それらはこの映画の主題から見れば枝葉のことであるからだ。

 たしかに違和感を覚えるシーンは多々あったが、私は素直に感動した。この映画が「水俣」の根源・本質を的確に捉え、観る者に明確な“メッセージ”を伝える、強烈なインパクトをもった映画だからである。

 水俣での3年間、ユージン・スミスと仕事と生活を共にしたアイリーン・スミスに「身体の動き方、眼鏡やひげの効果だけで、まるでユージンそのものに見えた時がありました」「『あ、ユージンだ。しばらく会ってなかったから会いにいこう』って一瞬、思ったんです」と言わしめるほど、「ユージン・スミス」に成り切り、熱演したハリウッドスター、ジョニー・デップの力がこの映画そのものの力となっている。
 それはジョニー・デップの「『水俣』を伝えたい」という熱い思いが映画の中からほとばしり出ているからだろう。インタビューの中でデップはこう語っている。

「(水俣に)関心を持つ者として、水俣病に関する知識を深めていくうちに、この歴史は語りつがなければならないと思いました。いかなる場合でも、メディア、映画、その他の表現方法を使った芸術の持つ力を上手く活用すれば、過去の出来事も現在進行形の状況も、人々に伝え、そして関心をもってもらうことは可能です」「少しで多くの人々が、今まで全く知らずにいた事実に、興味を持ったり、関心を持ったりするきっかけになればと思います」(パンフレットより)

 監督のアンドリュー・レヴィタスもデップの想いをこう語っている。

 「この作品は最初の段階から、ジョニー(・デップ)自身が企画を推し進めてくれたのです。作品が完成したのはジョニーのおかげです。彼の熱意、そして企画を取りまとめて実行していくこと、作品が語るテーマ、我々がこの作品を作るうえで大切にすべきだとしたことなど、全てにおいでジョニーの想いと熱意がエネルギーとなり、この企画が始動できたのです」(同上)

 この映画のメッセージは明確である。それは「企業の利潤追求のために多くの民衆が犠牲にされる」という公害問題の本質だ。それはチッソ追及運動のリーダー、真田広之が演じる「ミツオ」のデモの中での演説、また國村隼が演じるチッソ社長が、ユージン・スミスを買収しようとする時に語る「国民(実は企業)の利益のために、ほんのわずかな犠牲はやむをえない」という加害者側の言い分の中で表現されている。そして極めつけは、映画のラストで列記される世界中の公害被害の実態を伝える写真だ。この映画が何を観客に伝えたいか、その写真が列挙されるシーンに観客ははっきりと読み取る。「社会派エンターテイメント映画」とはこういう映画のことを言うのだと私は思った。

「Fukushima 50」との相違

 「水俣」と同様に、日本で起こった世界規模の“公害”である「フクシマ」をテーマにした「社会派エンターテイメント映画」の代表的な例が、2020年3月に劇場公開された『Fukushima 50』だろう。3・11の大地震と津波で電源喪失し、冷却機能を失った原発が暴走するなかで、その第一福島原発の現場に踏みとどまり収束作業に奔走した東京電力(東電)の作業員たちの死闘を描いている。佐藤浩市や渡辺謙など日本を代表する名優たちが数多く出演し、舞台となる原発内部の現場も実にリアルに再現されている。

 しかし3・11直後から10年間、断続的に福島を取材してきた私は、公開当初からこの映画を観たいとはまったく思わなかった。描かれるテーマにひじょうな違和感を覚えたからだ。
 それでも『MINAMATA』を観た後で、日本で起こった世界的な惨事を描く「社会派エンターテイメント映画」の『Fukushima 50』は『MINAMATA』とどう共通し、どう違うのかを見極めるために、きちんと向き合わなけらればと思いなおし、一昨日やっとネットで観た。また手元にあった、この映画の特集号「キネマ旬報 2020年3月下旬特別号」も熟読した。

 豪華な俳優陣を揃えていることもあって、よくできた映画だ。原発事故の深刻さ、それと格闘する現場の作業員たちの必死さもリアルに伝わってきた。しかし当初から抱いていた違和感はさらに強まった。『MINAMATA』を観終わった時のような感動はまったくなかった。なぜか。

 決定的な違いは、映画『MINAMATA』では、「水俣」という世界的な“公害”の根源、本質を見抜き、描いているが、『Fukushima 50』は「フクシマ」の根源、本質から完全に目を逸らしていることだ。つまり「東電という企業が、大津波の可能性についての事前の警告を無視し、安全対策を蔑ろにして企業の利潤追求にまい進してきた結果」であること、もっと言えば「国民の安全よりも、原子力産業、原子力ムラの利益を最優先してきた国の政策の結果」であるという「フクシマ」の本質にまったく触れようともしていない。そればかりか意図的に観客の目をその問題の本質から逸らさせるかのように、この映画は、加害者「東電」の一部であるはずの現場の作業員たちを、「必死の収拾作業を妨害する悪者・菅直人首相(当時)」やそれに従うだけの無能な東電本部の障壁を乗り越えて、「自己犠牲」を厭わず絶体絶命の危機に立ち向かう英雄的な男たちの物語に仕立て上げている。被災者たちからすれば「加害者側の一部」であるはずの彼らが、いつしか「被害者」にさえ見えてくるのだ。
 さらに、『MINAMATA』が徹頭徹尾、被害者とそれに寄り添うユージン・スミスの目線から描いているのに対し、『Fukushima 50』は最大の被害者である「被災者」の目線からではなく、東電という加害者側の一部である「現場作業員」の目線からこの歴史的な大惨事を描いている。その“立ち位置”の違いも、両者の伝える“メッセージ”の決定的な違いを生み出している。

映画人の意識の落差

 この違いはどこから来るのか。私は、それは映画の制作に関わる映画人たちの社会・政治意識、世界観、思想の絶望的なほどの両者の落差から起こるのだと思う。
 『Fukushima 50』の若松節朗監督はインタビューの中で、こう語っている。

 「僕はエンターテイメント映画を作ったので、原発推進映画、反原発映画を作ったのではない。ただ観客の方ににわかってほしいのは、あの事故の時に海外の人からFukushima 50と呼ばれた、こんな人たちがいたんですよ、知らなかったでしょうと。それがわかってもらえればいいんです。その中に極限状態で格闘している男たちがいた。そして映画の中には絶望と、人間の学ばない愚かさを入れたつもりです」(「キネマ旬報 2020年3月下旬特別号」より)

 おそらく若松監督は、「フクシマ」の持つ根源的、本質的な問題にはほとんど関心がなく、まったく視野になかったのではないか。ただ、日本国内だけでなく世界中が注目した福島の原発事故を映画化がするのに「最もスリリングで絵になる」テーマとして、事故直後の原発内の「極限状態で格闘している男たち」を映画の素材に選んだのだろう。そこには、ハリウッドスター、ジョニー・デップが「水俣」に寄せたような「企業の利潤追求の犠牲となった被害者たち」への深い想い、義憤を感じ取ることはまったくできない。

 この『Fukushima 50』が社会でどう評価されたのか。私が知る、福島に通うジャーナリストたちや、現場で出会う被災者たちの間では、この映画はほとんど話題にも上らなかった。ただ「キネマ旬報」にこんな批評があった。

 「政治的意図とヒューマニズム、どちらも安手の二つが手を組んでいる。2014年までの話で、『自然を甘く見ていた』というだけの結論。何を隠蔽したいのか。若松監督、承知の上での職人仕事か。知るべきことがここにあるとする人もいようが、2020年に見るべき映画になっていないと私は考える」(福間健二/同上)

 「フクシマ」はチェルノブイリ原発事故や「水俣」などと並んで、世界の歴史に刻まれる大惨事である。その惨状を描いた本格的な「社会派エンターテイメント映画」は、将来、出現するだろうか。その可能性があるとすれば、それは日本人によってではなく、外国の映画人によるものでないかと私は思う。
 話芸の中で社会、政治問題を鋭く突くお笑い芸人、「ウーマンラッシュアワー」の村木大輔がテレビ業界から干され、一部の例外を除いて、大半の芸能人たちが業界から干されることを恐れ、社会や政治の問題に口をつぐむ日本社会の空気を鑑みると、業界やスポンサーとなる経済界の支援を失いかねない、「フクシマ」の根源、本質を鋭くえぐり出す「社会派エンターテイメント映画」を作る映画人が日本から出現するのは、ほとんど不可能ではないかと思えてくるのである。

映画『MINAMATA』公式サイト

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