2021年12月26日(日)
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東京都・日比谷図書館/コンベンションホール
2021年12月21日
12月11日TBS「報道特集」が、「強制連行」という言葉をめぐる論争を特集で報じた。
群馬県高崎市のある「戦時中に群馬県で亡くなった朝鮮人労働者を弔う追悼碑」が県側によって撤去されようとしている。毎年行われる慰霊祭で、市民団体の代表が「強制的に連れてこられた朝鮮人がいた事実を刻むことは大事」といった趣旨の発言をしたことで、「保守」を標榜する団体が「その発言は『追悼碑を宗教上の目的、政治上の目的には利用しない』という建立条件に違反する」と抗議、建立を許可した県や県会議員に「集中抗議」することをネットで呼びかけた。その結果、「追悼碑の撤去を!」「/凸(突撃を略したネット用語)の依頼です」といった電話やメールが400件以上、県に寄せられた。
すると県は、2014年に碑の撤去を求めてきた。「追悼碑の存在自体が論争の対象となり、憩いの場である公園にふさわしくなったことから、更新を不許可とする判断をしました」というのである。
市民団体は裁判に訴えた。3年前の一審判決では「県の判断は違法」と認められたが、今年の高裁判決は、「“強制連行”発言は『政治的』」などとして、市民団体の請求を全面的に棄却した。
市民団体のメンバーは「(強制連行は)事実です。歴史的なことを言えば問題だということになれば、何も言えなくなる。『黙っていろ』ということになる」と怒り、あきれる。
菅前政権は2021年4月の閣議決定で、「朝鮮半島から内地に移入した人々の経緯は様々である。『強制連行された』などと一括りに表現することは適切ではない」「(「国民徴用令」による労働者の移入については)『強制連行』ではなく、『徴用』を用いることが適切である」とした。
その閣議決定の発端となったが「日本維新の会」馬場伸幸・共同代表の国会質問だった。
「『強制連行』は一般的にはきわめて意味合いの強い言葉といえる。こうした表現を用いることは不適切極まりないと考える」というのである。
馬場氏は「報道特集」のインタビューに「強制連行があったというだけをことさらアピールするのもよくない」「そういう方がゼロだったというふうには思いませんが、ことさら自分たちの先人たちがやってきたことを卑下して、凝り固まるというのもよくない」と答えている。
一方、この問題に詳しい東京大学の外村大教授(日本近代史)は「閣議決定の『移入の経緯は様々』というのは事実だが、実態は、おおむね強制的な動員だったことを押さえる必要がある」と言う。
外村教授が示した一例が、1944年7月に書かれた政府の内部レポ-トだ。内務省から朝鮮の動向を調査するように命じられた役人がこう報告している。
「朝鮮内の労務給源はすでに頭打ちの状態。如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様の状態である」「夜襲、誘出」。
誇張する必要もない国内部の資料に、「『おおむねこんな例ばかりですよ』と言っていることはしっかり確認する必要がある」と言う外村氏は、閣議決定を「『強制連行』というのが使っちゃいけないという雰囲気が社会的に醸成されている」と懸念している。
〈以上、「報道特集」から〉
政治の中枢にいる政治家たちが先導し、「保守」勢力が呼応して広めていく(また逆も)「自国の加害歴史から目をそらし、否定する」傾向がいっそう強まっていく現在の日本社会の空気を象徴する一例である。
2014年5月19日のテレビ朝日「報道ステーション」は、古館伊知郎・キャスター(当時)がドイツ・ベルリン市の中にある「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」を訪ねるシーンを映し出した。膨大な数の身の丈を超える追悼石碑の群。ここを年間50万人が訪ねるという。大半は国内のドイツ人だろう。
さらに古館氏はベルリン市街地を歩き、かつてユダヤ人が暮らしていた家の前の路面に埋め込まれた「躓(つまづ)きの石」のプレートを指差した。それにはかつて強制収用所に送られたその家族の全員の名前が当時の年齢と共に刻まれている。さらに画面は「緑の森」と呼ばれる市内の駅に変わる。もう使われることのない17番ホームで古館氏は身をかがえめ、そのホームの鉄板に刻まれた文字を読み上げた。
「1943年3月1日 1736人」「3月2日 1758人」「3月3日 1732人がここからアウシュビッツに送られた」
ドイツは自国の加害の歴史をこのように残し伝えている。その事実に私は衝撃を覚えた。日本との天地ほどの違いに愕然としたのである。
日本には広島や長崎の平和記念碑、さらに米軍の大空襲による被害者を悼む記念碑は日本各地に数多くあるが、自国の加害の歴史を刻んだ記念碑を私はあまり目にしたことがない。そればかりか、日本軍「慰安婦」問題や「南京虐殺事件」に象徴される日本の加害歴史について活字や映像で表現すれば、「自虐史観」者、「裏切り者」、「非国民」と非難・攻撃され、多くのマスメディアもこの問題に触れることをタブー視する。義務教育の教科書からもその記述はほとんど消えようとしている。
自国の加害歴史と向きあう姿勢がドイツと日本とではなぜこうも違うのか。
日本人が自国の加害歴史と向き合いにくくしている、要因の一つは、“被害者”意識の強調だと私は考えている。
私自身、被害者意識が加害の歴史や現実を見えなくする実例を、長く取材を続けてきたイスラエル・パレスチナの現場で目の当たりにしたことがある。
占領地で起こっているイスラエルによるパレスチナ人住民の抑圧の現状について、イスラエル市民に私はこう尋ねたことがある。
「あなたたちユダヤ人はナチスのホロコーストの迫害を受けたのに、なぜパレスチナ人をあのような抑圧をすることができるのか」
すると、そのイスラエル人は私に言った。
「あなたはホロコーストの恐ろしさを本当にわかっているのか。なぜパレスチナでの占領とホロコーストの苦難を同列に扱うのか。それらは全然、次元の違う話だ」
彼によれば、「ユダヤ人が二度とホロコーストのような目に合わないために、イスラエルを建国した。そのイスラエルが22カ国のアラブ諸国に囲まれたなかで脅威の中で生き残るために、少々の暴力や犠牲、占領は止むを得ないのだ」というのである。
欧米のメディアでも、パレスチナでのイスラエルのよる占領の実態が伝えられることは珍しくない。一方で、その報道を打ち消すかのように、ホロコーストの歴史が繰り返し流され、それを当時看過してしまった欧米人の後ろめたさ、罪悪感を呼び起こす。それは私には、過去の“被害”によって現在の“加害”を覆い隠そうとしているようにも見えてしまうのである。
私は日本人の“被害者意識”と“加害者意識”の問題を考えるとき、それに似た思いを抱くことがある。戦後日本の「平和」観は、ヒロシマ・ナガサキ、東京大空襲などに象徴されるような“被害”と“被害者意識”に基づいているといわれる。たしかに平和運動の象徴的なスローガンとして「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」は盛んに叫ばれる。しかし一方で平和を求めるスローガンに「ノーモア・南京」という声を私は聞いたことがない。ある政治学者は、「一般国民には「戦争責任は『一部の軍部』にあり、それによって苦難を強いられた自分たちは『被害者』だ。だから戦争責任などない」という意識があると指摘する。つまり被害者意識を持つことで、かつて「一部の軍部」に導かれたとしても、むしろ戦争への道に突き進む“社会の空気”作りに積極的に加担した自分たちの責任、アジアで兵士として自ら加害を犯した責任に目を背けてしまうのである。
さらに言えば、戦後、日本人が平和・核廃絶運動のシンボルとして「ヒロシマ・ナガサキ」という被害体験を強調することによって、無意識にではあっても、結果的には、日本の加害歴史を見えなくしてしまった一面があるのではないだろうか。あのイスラエル人がホロコーストを強調することよって、パレスチナ人への抑圧を“免罪”してしまうように。
そのような「ヒロシマ」のあり方に警鐘を鳴らしたのが、広島の詩人・栗原貞子である。栗原はその代表作の一つ『ヒロシマというとき』でこう記している。
〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈後略〉
北朝鮮による日本人拉致の問題へのマスメディアの報道や日本社会の反応も、“被害者意識”と“加害者意識”の危うい関係を示しているように思える。
突然、幼い娘が拉致で奪われた横田夫妻のような拉致被害者家族の悲しみや怒りは私たちの想像もできないほど大きいものに違いない。その家族の“痛み”は、繰り返し詳細に伝えられるマスメディアの拉致問題報道によって、私たち国民にもひしひしと伝わってくる。国民は家族の“痛み”共有し、それをもたらした加害国へ不審と怒りを募らせていく。
拉致問題をめぐるそのような報道や日本社会の空気の中で、私は一つ不可解に思うことがある。
「突然、家族を拉致された人たち」の“痛み”にこれほど共鳴できる感性をもった日本人ならば、その想像力をいま一歩広げて戦前・戦中に日本によって強制連行されたアジアの人々の家族の“痛み”まで思いを馳せることができるはずなのに、現実にはそうならなっていかないのはなぜなのか。そのことに言及したマスメディアの報道や解説を私はまだ見たことがない。拉致被害者と拉致された疑いのある日本人の数が数十人単位であるのに対し、かつて強制連行された被害者は数十万人単位にも及ぶというのにである。私にはむしろ拉致被害を強調することで、強制連行という過去の加害歴史が“相殺”または“免罪”され、忘れ去られていっているような気さえしてならないのである。
もちろん、だからと言って、北朝鮮側が過去の強制連行の歴史を持ち出して、現在の拉致事件の加害を“相殺”“免罪”することは決して許されない。
日本と同様、過去に侵略戦争の歴史を持つ敗戦国であるドイツは、“被害”と“加害”の問題とどう向き合ってきたのか。
ドイツのヴェルナー・ベルグマン(反ユダヤ主義研究所教授)はその変遷をこう解説する。
「1945年から50年代を通して、ドイツの庶民は、自分たちを戦争の被害者だと思っていました。(旧ソ連など連合国側に抑留された)捕虜、戦災被害者、追放の問題があったからです」「それが変わったのが、50年代から60年代にかけてです。(アルゼンチンに潜伏していたナチ高官を一方が拉致して自国で裁いた)アイヒマン裁判や(ホロコーストの実行責任者を裁いた)アウシュヴィッツ裁判が行われるようになってから、とくにユダヤ人に対する加害責任が前面に出てきました」
そして今、再びドイツで被害歴史の声が高まっていることについてベルグマン教授はこう説明している。
「被害のことを言う人たちの主張をよく聞いてみると、自分たちの被害のことを言うときに、必ず加害のことも言っています。そのうえで、自分たちの被害を語り、戦争で死んだ兵士の追悼もやるべきだという声が出ているのです」
さらに「被害があることで、加害は相殺されるのか」という問題について「加害と被害とは比べることができないと思います」と教授は答える。
「現在ドイツで起こっていることを理解するために、2本の線路があると考えてみましょう。1本は加害責任の線路、もう1本は被害者問題の線路です。(被害の声が高まると同時に)加害責任も、非常に広くなってきています」(『「過去の克服」と愛国心』(朝日新聞社・2007年)。
ドイツの加害歴史との向き合い方を象徴するのが、ドイツ敗戦40周年に当たる1985年5月8日に行ったヴァイツゼッカー大統領(当時)の演説である。「荒れ野の40年」と題されたその演説は歴史に残る名演説として今なお語り継がれている。
その中でヴァイツゼッカーは自国の加害歴史についてこう語っている。
「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」
「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」
「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題のなかから、平和への能力、そして内外との心からの和解への覚悟が育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです」
「われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は誠実さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります」(永井清彦訳『荒れ野の40年』(岩波ブックレット・1986年)
このヴァイツゼッカーの言葉は、同じく侵略戦争の加害歴史を持つ私たち日本人に自らの姿を顧みることを促している。
私たち全員が自国の過去を引き受け、責任を負わされていること。たとえ過去に直接関わっていない若い世代も(その後の)歴史のなかで、過去の出来事から生じることに責任があること。(その自国の)過去に目を閉ざす者は、結局は現在にも盲目になってしまうこと。それは私たちに日本人にも向けられた警告の言葉でもある。
私は27年前の1994年12月からほぼ2年間、韓国「ナヌム(分かち合い)の家」に通い、7人の元「慰安婦」ハルモニ(おばあさん)たちの生活と声を撮影・記録した(ドキュメンタリー映画「“記憶”と生きる」)。
その取材過程の中で、ある日、ハルモニたちが「日本の賠償問題」について議論する場面に出くわした。
1人のハルモニが言った。
「なぜ早く解決してくれないの。日本は大金持ちなのに。過ちを犯したら早く賠償するべきじゃないの」。
すると、もう1人のハルモニがこう答えた。
「お金を出すのが嫌だというわけではないのよ。彼らは過去の事を歴史に残さないようにするためだよ。(名誉を傷つけず)きれいな国民でいたいわけさ」
さらにもう1人のハルモニが言った。
「自国に傷を残さないためにありったけの力を振り絞っているんだよ。私たちはなんとか自分なりに証を残したいのよ。同じだよ、(私たちも日本政府も)両方が名誉をかけて張り合っているようなもんだよ」
今改めて思い起こすと、この会話は日本が「なぜ自国の加害と向き合えないのか」の答えの一つを見事に言い当てているように私には思える。
現在の日本では、自国の加害歴史つまり“負の歴史”を否定し記憶と記録から消し去って、「輝かしい過去」だけを拾い集めた「歴史」を教育現場で教え広め、こんな「美しい国」を「誇れ!」「愛国心を持て!」と強要する傾向がますます強まっている。
それはまさにハルモニが指摘するような「過去の事を歴史に残さないようにするため」「自国に傷を残さないため」「(名誉を傷つけず)きれいな国民でいたい」ために、「ありったけの力を振り絞っている」私たち日本人の姿ではないか。
しかし自国の“負の歴史”から目をそらし、“輝かしい歴史”をことさらに強調し「誇れ!」と強要することで真の“愛国心”は育まれるのだろうか。親が子を愛するとき、子の「好ましい部分」だけでなく、「好ましくない部分」をも丸ごと引き受けて愛するはずだ。“愛する”とはそういうことではないか。真の“愛国心”にも自国の“輝かしい歴史”だけでなく“負の歴史”をも引き受け、背負う責任を持つ覚悟が必要なはずだ。その覚悟がなければ、軽々しく“愛国心”を叫ぶべきではないと私は思う。
今私たちは日本人は“他者の痛み”に対する“想像力”を持つことによって、ヴァイツゼッカーが言うように「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしない」ことによって、「人間としての力が試されてい」るのではないか。
2009年、私はドキュメンタリー映画『沈黙を破る』を公開した。この映画は、パレスチナの占領地で兵役についたイスラエル軍将兵たちが、絶対的な武力と権力を手にし行使する快感に人間性、倫理観、道徳心を麻痺させていく危機感からNGO「沈黙を破る」を結成し、占領で病んでいく個人と社会の蘇生のために、占領の実態を告発する活動する元イスラエル将兵たちを記録した映画である。
その前年には、その元将兵たちの証言をまとめた著書『沈黙を破る』(岩波書店)を出版した。その中で、私は精神科医・野田正彰氏による「元日本軍将兵」と「イスラエル軍将兵」との比較・分析の章を設けた。野田氏は著書『戦争と罪責』(岩波書店)で、中国大陸で住民への残虐行為に手を染めた元日本軍将校たちにインタビューし、それらの行為に至る心理を鋭くえぐり出した。
私が敢えて両者の比較・分析の章を設けたのは、「沈黙を破る」の元将兵たちの証言は、決して「遠い国・イスラエル」だけの問題ではなく、私たち日本人の問題でもあると考えたからだ。占領地で将兵たちが「絶対的な権力と武力を行使する快感に人間性、倫理観、道徳心を麻痺させていく」姿は、侵略した異国で住民虐殺、レイプを繰り返した元日本軍将兵たちの姿を想像させるのだ。つまり元イスラエル軍将兵の言動という“鏡”に私たち日本人の姿が映し出されるのである。
『沈黙を破る』の公開から12年後、その続編である「沈黙を破る・Part2」を完成した。前作と同様に、占領地の実態と、占領に関わった元将兵たちの証言を交差させた作品である。この新作もまた、単に「遠い国の出来事」ではなく、それを“鏡”に、私たち日本人が「自国の加害とどう向き合うか」と自らに問うための作品でもある。
2021年12月26日(日)
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東京都・日比谷図書館/コンベンションホール
上で紹介した「報道特集」の動画は、Youtubeでも公開されています →報道特集・「強制連行」巡って・・・追悼碑撤去の波紋
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