2009年5月3日(日)憲法記念日 @ポレポレ東中野
週末トークショーのレポートは、「土井敏邦 パレスチナ記録の会」事務局のQが書いています。よろしくお願いいたします。
「土井敏邦 パレスチナ記録の会」事務局のQです。
そうなんですよね、今日は憲法記念日でした。その、憲法記念日に『映画 日本国憲法』の監督でもいらっしゃるジャン・ユンカーマンさんのトークがありました。
「今日、憲法記念日に『沈黙を破る』を観るというのはいいことですね。日本国憲法の意義、それがこの映画を通して、更にわかるのではないかと思うんです」という言葉からジャン・ユンカーマンさんのお話は始まりました。
この記事の見出し。
『沈黙を破る』は、自己反省のきっかけをつくっている
記事の単語はSelf-reflection。ジャンさんは、この記事を書いた記者をとても有能だと評価していました。どうしてかと言うと、『沈黙を破る』の普遍性を見抜いているから、だそうな。加えて、この記者は「<戦争>というものがどういうものなのか」がわかる映画になっている、とも書いている、って。
そうなんです。ジャンさんが言うように、この記事の迫力といったらないですよ。日本語に訳して紹介しないと!!
該当記事:Japan Times "Creating a catalyst for self-reflection"
[附記]ちなみに、この記事を書いているのは、バーバラさんという女性。自閉症などの子どもたちのホース・セラピーにも関心も持って取り組んでいるという方。初日に劇場にも来てくださいました。バーバラさんとの出会いに感謝です。
ジャンさんは、土井敏邦の4部作を最初からずっと観てくださっている方の一人です。
「この映画が成功しているかどうか。そのキーは『人間が見えてくるかどうか』なんです」とおっしゃいました。「人間が見える」とは、人間がきちんとこの映画の中に関わっているかということだそうで、土井敏邦の映画はしっかり人間が見えてるって。すなわち、成功してるってことですね。
「出てくる人間の性格が見えると、観ている私たちに何かを与える映画になるんです」
ふむふむ、考えるきっかけを大いに与えてくれる映画になってると思います。
この映画では、「戦争犯罪」ということも他人事に思えない迫力で迫ってくる、とジャンさんは言います。
「第2次世界大戦以降、二度とこのような戦争被害を繰り返してはならないと考え、『戦争犯罪』を定義し、非人道的な攻撃を防いでいこうという方向性で過ごしてきたけれど、イスラエルはそういう方向でないことをずっとやってきた。2004年のレバノンではクラスター爆弾をばら撒き、このガザ攻撃では白リン弾を使っている。そこにどんな人間が関わっているのか」
『沈黙を破る』では、そこでそういった行為に関わった人間がどのように「傷ついていく」のかが見えてくる、って。「戦争被害」というのは、もちろん第一に「被害を受けた側」について語られなければならないのだけれど、「被害を与える側」の末端として利用され、具体的に行為をさせられていく兵士の、身体だけではなくて精神的なダメージも大きい、とのことでした。
「占領」とは、暴力と屈辱を与えることにより相手を支配すること、だとジャンさんは言ってました。暴力や屈辱を与えれば相手は反発する。反発して相手も攻撃的になる。すると、相手の反発に対しもっと強力に抑圧しようとする。暴力や屈辱を与える行為はどんどんエスカレートする。そして、反発を抑えるためには殺すしかない、というところまでいく。
これを聞くと、イスラエル兵がパレスチナに人々に対して、というより、この構図は世界中そこかしこにあると感じます。家庭でも会社でも、学校でもありうることなのではないかという気がしてくるなぁ。
「そして、占領下で、兵士達が『掃討しなければならない敵』ではなく、実は『フツーの人』に暴力と屈辱を与えていることに気づいた時、それが自分の精神的負担になっていることを自覚する」
とジャンさん。
ジャンさんは、このことからアメリカのイラク占領を想起されたそうです。アメリカからイラク戦争に行った兵士は約100万人、そのうち30万人がトラウマを抱えているそうです。自分の加害性に苦しみ、精神的にどう回復していけばよいのかわからないでいる人たちがたくさんいる、と言います。
ここで、アメリカの様子を教えてくださいました。
「帰還兵士達が自分のストレス(Combat Stress)について語ることは、政治的なことにつながるけれど『政治的なこと』ではないのです。そういう意味で、例えば、アメリカの中でもバークレーなどイラク戦争に疑問を呈する意見が許される地域に戻った兵士達は、自分のストレスについて語っても受け容れてくれるコミュニティが存在しているから、語ることにより回復していくことができる。でも、南部などイラク戦争に疑問を持つことさえ許されないコミュニティに帰った兵士達は、率直な思いを話せないことでストレスがさらに高まり、酒やドラッグに頼らざるを得ず犯罪へと移行することも多くなる。自殺する人も多い。身も心もボロボロになるほど辛くても、『戦争反対』につながりかねない自分の加害を語るなんてこと、できないコミュニティに生きることは、その個人の回復が見込めない状況です」
そのあたりのことは、Tyler Boudreau、イラクで任務についていた元海兵隊員の本『Packing Inferno: The Unmaking of a Marine』に詳しく書いてあるそうです(まだ、翻訳はされてないそうです)。
ジャンさんは、「Breaking the Silence」のメンバーにTylerの書いていることとの共通性を感じるそうです。加害を吐露することで、本来の自分を回復しようとする。加害を語ることは容易ではないけれど、言わなければもっと心理的に辛いということを悟った人たち、ということかな。
こういう話を聞きながら、加害者が個人的な被害(=暴力で暴力を強いられることによる人間性の剥奪)を語ることが現在の「占領」や「戦争における暴力」に変化を起こすかもしれない、といった期待や願いをQは持ちたいです。
こういう論議の中では、必ず、「兵士のトラウマより現実に侵略され攻撃され続けている人々の被害やトラウマの方がもっと凄まじいのだ。だから、被害者の声をもっと取り上げるべきだ」「告白する兵士を美化しているのでは?」「イスラエル(ひどいことをする人)の中にも、こういうまともな人が居るのよ、って言いたいの?」という反発がよく出る。私も、制作意図の中途半端な「和平もの」ドキュメンタリーを観て、そういった感想を持ち激怒していることがあるから。
そこは、基本を押さえたいです。
イスラエル・パレスチナを語るとき、まずはパレスチナの人々が日々の生活で受けている凄まじい占領状態を被害者の立場から語るべきです。イラクもアフガンもチェチェンも……、どこも然り。
ただ、占領している兵士が「これって、やっちゃいけないことだ。なんで、オレに(わたしに)こんなことをさせたんだ!」って気づき怒りを表現していくことはすごく大切なことで、周りは「よくぞ、言ってくれた」と支えていきたいということ。
ジャンさんは、「映画の中で、今後、どうしたらよいかと問われたエル・ハナンが『(相手を)理解することしかない』と言っているのは印象的だ」と締めくくられました。この文脈では、「自爆攻撃で娘を亡くしたお父さんがパレスチナ人がなぜそういう行動に出なければならないかを理解したい」ということなのでしょう。
しかし、この言葉は深くて、「相手」というのが、「イスラエル人から見るパレスチナ人」だけでなく、「パレスチナ人から見るイスラエル人」だったり、加えて「加害を語り始めた兵士をイスラエル人が理解していくべきだ」ということも含んでいる……って繋がっていくように感じます。
せっかくのジャンさんのトーク! もうちょっと多くの人に聴いて欲しかった。
ジャンさん、すみません。観客動員、もっともっと、がんばらないといけません。みなさま、クチコミ、よろしくお願いします。
(文責「土井敏邦 パレスチナ記録の会」Q)
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