2009年5月6日(水) @ポレポレ東中野
ゴールデンウィーク最終日のゲストは、渡辺えりさんでした(数年前に「渡辺えり子」から「渡辺えり」に改名されたんですよね)。
やはり「どうして渡辺えりさんがポレポレ東中野で『沈黙を破る』について語ってくれるのか」ということが気になりますね。
出会いは、渡辺えりさんが参加している『非戦を選ぶ演劇人の会 ピースリーディング「あきらめない夏2004」』というイベント。その劇中で土井敏邦や古居みずえさんの著書の中からパレスチナの人々の証言が読まれたのでした。この夏、8月16日・17日にも、スペース・ゼロでピースリーディングを開催されるそうです。その時に、また、土井敏邦との対談が期待できるかも……。
トークの中で土井敏邦が「なぜ、渡辺さんは、こういった戦争反対とか、平和への思いをこれほどしっかりお持ちなんですか」と問うと、えりさんは「私は戦争の子どもなんです」と言いました。
えりさんのお父さんは戦時中、中島の飛行機工場で零戦のエンジンを作っていたそうです。日本中の誰もが「お国」のために働いていた時代。その時、B29の空襲を受けました。空襲の時も工場を管理する人(死守する人)を数名必要としていました。お父さんはその数名の一人として工場に残ったんです。あろうことか、工場は誤爆により空爆から逃れ、工場以外の地域(フツーの人びとが生活するエリア)に爆撃したのだそうです。お父さんは、敗戦後山形に戻り、結婚され、そして生まれてきたのがえりさん。えりさんは、このエピソードを30歳過ぎにはじめて知り、大きなショックを受けたそうです。
「自分は、奇跡的に生まれてきたんだ。生まれたかったのに、生まれて演劇がしたかったのに、できないでいる人がいっぱいいる。その人たちの分も自分が背負って、戦争を語り継ぐことを決心した」と言います。この想像力、「人の痛みをどれだけ自分の痛みとして感じられるか」当時の自分以外の生まれてこられなかった命にこれほどまでに思いを馳せられる力。えりさんの想像力、すばらしいと思います。
さて、渡辺えりさんが、どのように『沈黙を破る』を観てくださったか、です。
「映像を見てとてもショックでした。私は、土井さんや古居さんや、その他の方の本も読んで内容は知っているつもりでしたが、映像で観るとさらにショックでした。目の前で家族が殺される、ブルドーザーで家が壊されていく……。知識で持っているものを、視覚で改めて見たとき、絶句でしたね。私達が見ているニュースって、“嘘”ですよ。ご飯食べながら見られるんだもの。そういうのって、なんて言ったらよいのかな、“嘘”ですよ」
えりさんが言っている「嘘」というのは、テレビのニュースが「起こったこと」「現象」を見せてはいるけれど、「中身」をきちっと描けていないので、なかなか見ている人びとの奥にまで突き刺さっていかないということかな。
「『沈黙を破る』は、臭いがする。死者を焼く臭い。また、目の前で家族が死んでいくことに失神する少年の姿。そういう状況をリアルに感じ、また新たなショックを受ける。米国人のボランティアが感情を抑えきれなくなる場面。あの場面に、音楽もつけずナレーションもつけず、この映画は作られている。だから、リアルに迫ってくる。この映画を観て、自分の人生、54年以上のことを考えさせられる。世の中には、それ以上のことがもっとあるんだという事を……」
「観てくれた人を現場に連れて行きたい」とはこの映画の願いですが、そういう意味においてえりさんは『沈黙を破る』に出てくる現場に行き、そこの空気をしっかり感じてきたんだと思います。
「ドキュメンタリー映画って、リアルだけどナチュラルではないですよね。ドキュメンタリーって、監督のセンスが問われると思うんです。膨大なフィルムの中のどこを選ぶか。何を主役に持ってくるか。すごく監督のセンスが問われる」と言うえりさん。
えりさんにとって印象的な場面の一つは、「沈黙を破る」のメンバーが国会に呼ばれ質問を受けている場面。
「あの女性が出てくる部分を使う監督のセンス、いいですね。どうして、あそこを使おうと思われたの?」とえりさんから問われた土井敏邦は、「あの国会議員の女性の言っていることこそ、大多数のイスラエル人の考えなんですね。『沈黙を破る』の兵士達って、マイナーなんです。イスラエル国内では少数派なんです。あの女性を以って、イスラエルの大多数の声を表現しようと考えたんです」と答えました。それを受けてえりさんが非常に伸びやかで素直な「告白」をしました。
「そうでしょう、私、あれ見てね、『自分がそうなっちゃうだろうな』って思ったの。私、真面目なんです。だから、戦時中に生きてたら、お国を守るためにとても熱心なおばさんだったと思う。竹やり訓練とか『もっと、しっかりやらなきゃ!』って言ったり。そういう時代でも、クールな人、ちょっとやそっとじゃ騙されないぞ、みたいな人は大丈夫なんでしょうけれど、わたしは、みんなのためになるならって、率先してがんばっちゃう。80パーセントくらいの確率で『我慢しなきゃダメじゃない』なんて言ってたと思う。
太平洋戦争中は、犬やネコの皮を剥いで特攻隊の帽子を作っていたそうです。八王子の役所の人が、焼かずにいたので、その供出のお願いの回覧板などの記録が残っていたんだそうです。自分の犬やネコまで出していく。今だったら『そんなことやらない』って思うけれど、やっちゃうんだと思う。そういうところに追い込まれたら、やっちゃうかも。元兵士のドタンも、学校で教えられた道徳と兵士としてやってることが違うと話す場面があるけれど、やってしまうのが人間なんだろうと思う。その現実が、この映画で描かれている。
『今、戦争になったら(自分も)やっちゃうかもしれない』という怖さを感じる。その自分と向かい合い、それをどうすればよいかを考えてます」
「危機感」とともに、えりさんが『沈黙を破る』に対して選んだもう一つのキーワードが「切迫感」。日本の同世代の若者が、この映画をどんな風に受け留めるのか、気になるそうです。この映画には、「生きるってなんだろう」という切迫感を持たせると言います。しばしば言われる「今の若者がだらしないから軍隊に入れろ」みたいな発想じゃなくて、軍隊っていうものはなにかを切迫感を持って伝えることが大切だと考えていると。
えりさんは、米兵のアレン・ネルソンさんの講演会に参加され、大きな感銘を受けたそうです。アレンさんは、ご自身の体験を語り「戦争とはどういうものか」を伝える活動をされている人です(今は、お亡くなりになられています)。
「軍隊」は人を殺す訓練をする所。相手を人間じゃないと教育され、そう思うようになる。殺してもレイプしても平気になる。だって、相手は人じゃないから。そうでなければ、できないこと。
「軍隊に入るとこうなるんだ」という現実をアレンさんの公演で突きつけられた。それと同じ切迫感を『沈黙を破る』を見ても感じたそうです。
「今、若者は『自分がよその国へ行って人を殺すことになる』なんて思っていないと思う。でも、戦争にいける国にしようという人たちは確実にいて、そういう人はみんなお年寄りで、自分たちは行かないで若者に行かせるわけでしょ。若者たちは、『軍隊』というものから切迫感をこの映画で感じられるといいですね」
さらりと、えりさんは話されていましたが、この危機感や切迫感を自分に突きつけて生きていくのは並大抵な努力でできないことだと感じます。世の中に流されない、ということだから。
ここで思い出したフレーズがあります。憲法第12条の前半部分、「この憲法が保障する自由、及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。……」自分たちの自由や権利が「お国」に利用されないように、「不断の努力」(=絶えることなく努力)をし続ける。
えりさん流のこの危機感を持つ努力こそ、私たちの自由や権利を守り、「公共の福祉」(=多くの人びとの幸せ)につながるんだと思いました。
えりさんは、5月10日から『楽屋』というお芝居を始めます。今日だけ、たまたま舞台の「仕込み」の日で公演前の稽古がお休みだったのでトークが実現したのでした。貴重なお休みなのに、ありがたいです。
その舞台は、芝居に囚われた4人の女優さんのストーリーだそうで、えりさんは「戦前に生まれ、戦前の芝居をしていた女優」の役なのだそうです。
「東京大空襲で死んでいるので、お化けの役なんですよ」と『楽屋』に込められた反戦・非戦の思いを話してくれました。えりさんはもちろん戦後の生まれで、役をつくりながらどうしても、この「戦前の女優」の思いがわからないと感じたそうです。「戦前」を自分は知らないんだな、と気づき、加藤治子さんにお話を聞きにいったそうです。
加藤治子さんは、戦前に加藤道夫さんや芥川比呂志さんたちと劇団で芝居をしていたそうです。「演劇は生きること」との思いで熱心に活動をしていた。そこへ学徒動員。年齢が繰り下げられ、すごく若くても戦争へ行かされることになった。当時の日本で、戦争に行くということは死ぬことだった。加藤さん達は物事のよくわかった人たちだから、日本がこの戦争に負けることはわかっていたし、自分達も確実に死ぬんだと思っていた。治子さんもこの人たちは死ぬんだと思っていた。でも、奇跡的にこの二人の役者は帰ってきたそうです。生きて帰ってきた彼らを見て、触って、またこの人たちと芝居ができる、と思ったとき。これが治子さんの人生、80年余に渡る中で、今でも一番嬉しいことなのだそうです。「生きて帰ってきた。このひと言に尽きる」と。
えりさんはこの言葉に、「戦争」がはっきり語られているように感じたそうです。そして、「自分はこの役で、戦争で死んだ人の思いを語り継ぐ役なんだ」と理解したと言います。
加藤治子さんは「今は、一番嫌な時代。戦争中よりひどいかも」とも言っておられたそうです。その意味は、真剣にものをつくる、向かい合う、コミュニケーションする、そういうことが難しい時代になったからだということでした。
ずっと、日本は「平和」でいいんだろうけれど、何か足りない。
それについてえりさんは、「私たち中年にも責任がある。若い人たちがダメなんじゃなくて。おもしろくていい時代にしていきたい」と話していました。
えりさんは、若い人たちといっしょにやっていくことができないだろうかと、考えているそうです。今、若い人たちと『楽屋』をやっているけれど、この芝居にある反戦・非戦の思いは読み込めない。悪気無く読み込めない。だから、えりさんは、「大人」として、自己責任で非戦を語り継いでいくことをやっていけたらいいな、と思っているそうです。
「一人でも多くの人が、そう思うことが大切!」と呼びかけていました。
(文責「土井敏邦 パレスチナ記録の会」Q)
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