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Vol.11 誕生パーティー 8畳ほどの部屋にベッドが2つ、部屋の隅には小さな台所がついたホテルの一室が2人の住処となった。食事は近くのスーパーマーケットやレストランから食料を買い、卵焼きなど簡単な調理をして済ませることになった。手術から1日が経つと、ムスタファの顔にやっと笑顔が戻り、食欲も出てきた。食事や洗面、トイレなどムスタファの身の回りの世話一切は父親のエマドの仕事である。歩けないムスタファは、1日中部屋にこもり、テレビのアニメ番組を見て時間を過ごすことになってしまう。エマドもそんな息子を独りにして外出することもできない。ムスタファだけでなく、看病するエマドにとってもずっと部屋に閉じこもる生活は精神的に参ってしまうちがいない。ムスタファを外に連れ出すために、私は車椅子を購入した。これでエマドはムスタファを連れて買い物や散歩に出られるようになった。 8月30日はムスタファの9歳の誕生日だった。しかしちょうどその日の早朝、私はアンマンを出て帰国の途に着くことになっていたため、1日早い29日の夕方、ムスタファの治療のために協力してくれた人たちを集まってもらい誕生パーティーを開くことになった。エマドと私は、飲み物や食べ物に加え、大きなケーキとろうそくも用意した。病院の手配に尽力してくれたアブ・ファイサルやゼイナブ医師、それにバクダッド市内のムスタファの自宅を何度も訪ね、その様子を随時日本の私に報告してくれたJVCの佐藤真紀さん、今後アンマンやバクダッドでムスタファの世話をしてくれることになった同じJVCスタッフの吉野都さんや原文次郎さん、それにヨルダン人の現地スタッフたちもムスタファへのプレゼントをもってかけつけてくれた。「ハッピー・バースデー」の合唱のなか、ケーキの立てられた9本のローソクの火をムスタファが勢いよく吹き消した。9歳の誕生日をヨルダンで、外国人に囲まれて迎えるなどムスタファはもちろん、父親のエマドも予想もしていなかったにちがいない。手術直前にあれほど泣き叫んでいたムスタファが、この日、自分の誕生日を祝うたくさんの人たち囲まれ、満面の笑顔を浮かべ上機嫌だった。 周りが暗くなったころ、突然、近くから花火が上がった。日本の花火大会で見るような鮮やかで大きな花火が次々と真っ暗な夜空に広がった。数十メートルしか離れていないところで、しかも誕生日パーティーが盛り上がってきた頃を見計らったような花火。ムスタファは目を輝かせ、じっとその花火に見入っている。ヨルダン人青年の1人が「これはムスタファのための花火だ。神さまからの贈り物だよ」と言った。 私が帰国して4日後の9月3日、アンマンの佐藤さんから次ぎのようなメールが届いた。
「また手術」と聞いて泣き叫ぶムスタファの姿が目に浮かんだ。1週間後、再びアンマンからメールが届いた。幸いこのときは手術をせずに退院できたという知らせだった。しかし9月18日、今度は、動かなくなったアキレス腱の手術が行われたという報告が入った。 医師の話では、手術の痕が癒えれば、いったんバクダッドに戻りリハビリを開始することができるとのことだった。そして患部の傷が癒える3ヵ月後に再びヨルダンへ戻り、今度は神経の回復具合を見て、必要ならば神経の回復のための手術がやることになると医師は説明した。 ムスタファの脚の治療はまだ当分続くことになりそうだ。
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