ファルージャ 静かな農村を襲った真夜中の「無差別」攻撃

土井敏邦(『週刊朝日』2004年6月4日増大号より)

 居間を通り抜けると、天空が広がり、壁に囲まれた空間は瓦礫の山となっていた。
 一瞬中庭かと思ったが、この家の主人は、爆撃で天井が崩れ落ちたと説明した。
 瓦礫の角に哺乳ビンが残っている。その近くに頭皮のついた髪の束、さらにミイラ化した足の一部。その指の大きさから、子供のものと判別できる。瓦礫の下から出てきたものだったという。
 戦闘機や武装ヘリコプターの攻撃で、ファルージャでもっとも激しい被害を受けたとされる市内北西部のジュラン地区。ザーヒ家のアハマドさん(28)は、4月6日に突然起こった、その事件をこう語った。

 「当時、叔父や従兄弟などを含む4家族がこの家にいました。攻撃の激しい地区を逃れて安全だと思いわれたこの家に親戚が避難していたのです。午後10時ごろ、突然、まず家の門の近くに米軍の戦闘機から爆撃が落とされました。その爆弾で家の入り口付近にいた男たちが殺されました。その直後、30人を超える女性と子供たちが避難していた部屋にミサイルが撃ち込まれ、天井は崩れ落ちました。部屋にいた31人が下敷きになって殺されました。そのうち子供は16人でした。瓦礫の下に埋まった遺体を片付けるのに2日間もかかりました」

 どう見ても、「無差別」にしか見えない攻撃だ。なぜファルージャが、無差別的な包囲攻撃にさらされたのか。

 バグダッドの西方約60キロにあるファルージャは人口およそ30万人、イスラム教スンニー派住民の街である。
 米軍の占領が始まった直後の昨年4月、市内の小学校に陣地を構えた米軍に対し、市民が撤退を要求するデモを行なった。その市民に向かって米軍が銃撃し、十数人が殺害された。この事件をきっかけに反米意識が一気に広がった。以後、ファルージャは米軍に対する武装闘争の拠点の1つとなっていた。
 ファルージャへの度重なる米軍の弾圧に、反米感情が一層高まっていた3月31日、市内に侵入した4人のアメリカ人(「民間人」と報じられているが、米軍や情報機関の出身者または関係者だといわれている)が市民によって殺害される事件があった。
 遺体は焼かれて鉄橋に吊るされた。この事件をきっかけにして、米軍は4月5日からファルージャを包囲攻撃し始めたのだ。

 4月末、米軍とファルージャ出身の旧イラク軍将軍との停戦協定によって米軍は撤退を開始した。私がバグダッドからファルージャに入ったのは、包囲が解かれて数日が経った5月11日だった。
 幹線道路の検問場所には米軍とファルージャ出身のイラク軍が共同で警戒に当たっていた。だが、検問所のイラク兵の1人が「米軍は我われを全く信用せず、車などの最終チェックは米兵がやるんです」と私たちに不満をこぼした。
 今のファルージャは一見、平穏が戻ったように見えるが、外国人が単独で動き回るのはまだ危険だ。私はイスラム党の支部を訪れ、取材への協力を要請した。

 米軍の攻撃で負傷した患者たちが入院するファルージャ総合病院。停戦協定から2週間たった5月中旬でも、米軍の攻撃の犠牲者たちがまだ残っていた。
 12歳の少年アブドゥル・ワドゥットの右脚は腰までギブスに支えられていた。レントゲン写真を見ると、大腿骨の付け根あたりが骨折している。神経も切断されているという。さらにペニスと睾丸を失っていた。
 叔父の説明によれば、停戦協定が成立した直後、久しぶりに友達と遊べると、家の外へ飛び出して、突然米軍の狙撃兵に銃撃されたという。
 眼以外にまったく全身の機能を失った15歳の少年モハマド・イスマールは、もう1ヵ月もこの病院に入院していた。脳のレントゲン写真には、小さな爆弾の破片が数個写っている。
 ほぼ1ヵ月前の4月上旬、モハマドは、空になった調理用のガス・シリンダーを交換するために、肩に抱えて家を出ていった。その後、どこで、どのように爆弾の破片を受けたのか、家族にもまったくわからないという。
「高校生ですけど、もう学校へ行くこともできません。この子のために何ができるでしょうか。眼以外はまったく身体が動かないのですから。鼻からの管で食べ物をとるだけです。こちらが話しかけても何の反応もありません。死んだ人間のようです」
 母親は、途方に暮れたように言った。

 「米軍のファルージャ攻撃は民間人への“無差別攻撃”だった」という確信を一層強めたのは、街から10キロほども離れた郊外の農村地帯・ナイミヤ地区で目撃した米軍のすさまじい攻撃の爪跡を目の当たりにした時だった。
 たっぷりと水をたたえた川、緑が広がる畑、椰子の林、ナイミヤ地区はのどかな田園光景が広がる静かな一帯だ。ここで住民13人が殺害され、27人が重傷を負ったという。そんな悲惨な事件がほんとうにこんなのんびりとした場所で起こったのだろうか。私を案内するイスラム党関係者の情報が、にわかには信じられなかった。
 目的地の農家は、そんな田園のなかにあった。周辺にはほとんど他の民家は見えない。
 出迎えたこの農家の主人ハイテム・アブジャーセム(32)に案内されて、数軒の建物が並ぶ敷地内に入ったとき、それまでの疑念は、一気に吹っ飛ばされた。
 4棟の建物の内部が1棟を除いてほとんど破壊されている。天井に大きな穴が開き、壁は大きく崩れ落ちている。中は瓦礫の山だった。
 戦闘とはまったく無縁の場所のように見えるこの農家で、いったいなぜこんなことが起きたのか。
 ハイテムの説明によれば、4月24日の真夜中午前1時ごろ突然、米軍の戦車による砲撃と戦闘機による爆撃が始まったという。
「ここにはまったく戦闘員も、米軍のいう『テロリスト』もいませんでした。この家には、銃さえもなかったんです。だからもちろん誰も銃で反撃などしていません」
 そう言ってハイタムは私を一棟の建物の中へ案内した。瓦礫が広がった床に、布団と枕が残っていた。
「戦闘機からのミサイル爆撃でこの部屋が破壊されました。ここには私の弟夫婦と3人の子供が眠っていました。子供の一番上は5歳でした。爆撃されたとき、弟は子供を抱えて避難させようとしました。しかしその5歳の娘は瓦礫の下敷きとなって死にました。弟自身も右腕の肉をえぐりとられました」。
 次の建物は壁一面が崩れ落ち、支えきれなくなった天井は今にも落ちそうな様子だ。「最初の砲撃はこの壁からでした。私のもう1人の弟とその家族6人がこの部屋で眠っていました。13歳の娘がここで殺されました。名前はブラシュラーです。これがその娘の血の痕です」
 床にころがるブロックの塊に染み付いた血痕があった。
「彼女の母親は手の甲の肉をえぐりとられ、顔も首も焼かれていました」
 ハイテムは崩れ落ちた壁から身を乗り出し、外の中庭を指差して言った。
「21歳の弟はあの中庭で寝ていました。爆撃が始まったとき、弟は叔父の子供を抱えてコンクリートの建物に避難させようとした。しかしその途中で米兵に撃たれて死にました。あそこに血の痕が残っています。叔父の息子は今も負傷したままです。叔父のもう独りの息子は他の家に寝ていましたが、自分の子供を外に連れ出そうとしたとき、戦闘機から爆撃で殺されました。弟はモアイヤット・アブード・ジャーセンで、叔父の息子はアリ・アブジャーセン22歳です」
 ハイテムは、爆撃から逃れようと別の家族が向かった20メートルほど離れた灌漑用水にも私を案内した。
「私の弟アリは2人の娘を抱えて爆撃から避難しようとして、この水路まで逃げ、川の中に身を隠しました。しかしそこにクラスター爆弾が落とされ、アリと6つになる長女のザハラは即死し、4歳の次女のグルランは重傷を負って、翌日病院で亡くなりました。この周辺にはたくさんのクラスター爆弾が落ちていたました」

 別の建物の鉄の扉は砲撃で穴だらけだった。中にはいると中庭が広がっていた。
 ここではファルージャ市内から避難していた親子、32歳の母親と4人の子供が犠牲となった。中庭の隅の床がにじんでいた。ハイテムはその母親の血の痕だと説明した。
 母親と5人の幼子たちは、この中庭でマットレスを並べて眠っていた。そのとき突然、ミサイルがその中庭に命中した。全員が即死だった。ほとんど遺体の姿をとどめず、中庭一面に頭部や肢体、肉片が散乱していたという。壁の一面にはセメントを叩きつけたような無数の小さな塊が点在しこびりついていた。近くによって見ると、黒ずんだ泥のように見える。
 「これは壁に飛び散った肉片と血の跡です」とハイテムが言った。さらに床に落ちている木の皮のような物体を手に取ると、彼は付け加えた。
 「これはイブラヒム(2歳)の手の肉片です。イブラヒムの遺体はばらばらになっていて、頭はこの角にころがっていました。まるで首をナイフで切ったようでした。後頭部は切れてなくなっていました。脚は何日もたってから、あの角でみつかったのです」
 中庭で寝ていた母親と5人の幼児たちのうち生き残ったのは生後6ヵ月になる赤ん坊だけだった。母親はなくなる直前、とっさに赤ん坊を洗面所に運んだ。他の子供を助けようと中庭に戻って来たときに被爆し即死したという。
 この攻撃でアブジャーセム家の家族13人が死亡、うち10人が2歳から14歳までの子供たちだった。
 深夜から始まった砲撃が止んだ朝、米兵たちが爆撃跡の家に捜索にやってきた。
 亡くなった弟の部屋に入ると、戸棚のドアをたたき壊して中を調べた。中から弟の身分証明書の入った財布と50万ディナール(およそ330ドル)の現金が出てきた。
「米兵はその身分証明書と現金をポケットに入れて出ていきました」(ハイテム)
 その部屋が終わると、米兵たちは他の部屋に行き、同じように家具を破壊して捜索した。さらに野外にあった車の窓ガラスを銃尻で車のガラスをたたき割り、中を調べた。しかしもちろん武器は何も出てこなかった。
 「誤爆」だったとわかったのか、米軍の将校がハイテムに「アイム・ソーリー(申し訳なかった)」とだけ言った。
「事件を知った周囲の村人が私たちを助けようとここへ来ようとしたとき、米軍は村人たちを拘束しました。地面に座らせ、両手を頭の上に組ませたまま2時間ほども放置しました。生き残った私たちは27人の負傷者をなんとか救助しようとしました。しかし薬もなく、ただ包帯があるだけです。負傷者を救助するときも狙撃される危険があったために立ち上がることができず、這って移動しました。私たちは簡単な治療で止血を試みました」(ハイテム)
 米軍は負傷した家族をヘリコプターで米軍の病院へ運び応急手当をした後、イラク人側の病院に移送した。その後、米軍から何の補償も公式の謝罪もないという。
 中庭の一角にテントが建てられていた。ファルージャ市内のイスラム党から寄贈されたテントだという。中には病院から戻った重傷の2人の家族が横たわっていた。
 ハイテムの弟のバラカット(25歳)は、右腕の肉をえぐりとられ、両脚と腰にも重傷を負っていた。もう1人の弟ユーセフ(31歳)は、右頬の肉を失い、顎(あご)の関節を砕かれている。100ドルほどを支援したイスラム政党以外に支援する団体もない。病院に長く入院することもできず、2人は傷口に蝿が群 がるこのテントなかで療養するしかないのだ。

 単純な「誤爆」なのか。なぜ米軍は街から遠く離れ、孤立した農家を狙って、何の反撃もしない相手に数時間にわたって攻撃を続けたのか。イスラム党の幹部は「米軍は、殺された4人のアメリカ人の1人当たり、100人のファルージャ住民を復讐のために殺害するつもりだったようだ」と語った。私はベトナム戦争当時の米軍による「ソンミ村虐殺事件」を思い出していた。
 「700人の超える犠牲者」という住民側の統計が誇張ではなかったことを実感したのは、街の中心地のサッカー場に設けられた「集団墓地」の前に立ったときだった。ここだけでもおよそ500人が埋葬されて、新しい土盛りの列が何十も並んでいる。
 私は2年前に、似たような光景を目撃していた。2002年4月、パレスチナのジェニン難民キャンプ。イスラエル軍に2週間近く包囲され、空と陸から猛攻撃を受け亡くなった数十人のパレスチナ人住民の集団墓地だ。そこでは急ごしらえの「墓石」は、名前を書いたダンボール紙だった。
 一方、ここファルージャでは「墓石」は歩道の石版だ。中には3つの名前が並んでいる「墓石」もあった。遺体の一部しか見つからなかった幼児3人の墓だという。
 小さな墓もあった。手しか発見できなかった少年の墓だった。1つの土盛りの横に、もう1つ、小さな土盛りが寄り添う墓もある。3歳になる幼児を抱いたまま亡くなった母親の墓だった。命を絶たれても抱きしめて離さなかった子供を、その母親の墓が今でも抱いているように見えた。
 ジェニンとの共通点が他にもあった。米軍が陣地に使った住民の家で、米兵たちが食物やコラーンの上に脱糞していたとある住民は証言した。そういえば、ジェニンでもイスラエル軍に占拠された民家で、ベッドや家族の写真の上に兵士が脱糞していたと住民が証言し、私にその痕を示した。侵略軍が「征服の証」として行なう共通の行動パターンなのだろうか。
 墓地で白い髭の老人が号泣しながら、私を導いた。大学生と高校生だった2人の息子が他の3人の親戚たちと自宅でお茶を飲んでいる最中、戦闘機によって爆撃され、5人は即死した。
 この他にも市内のあちこちに小さな墓地が作られ、自宅の庭に埋葬せざるをえなかった例もあったという。

 集団墓地を取材する私に、男たちが群がってきた。
 私が日本人だとわかると、1人の男が怒気を含んだ声で私に向かって訴えた。
「私たちイラク人はどんな国からも人も受け入れます。しかし軍隊だけは絶対送らないでほしい。あなたたちが軍隊を送るなら、私たちはその軍隊と闘う。軍隊を送るどんな国でも、私たちたちの敵なのです。イラクに軍隊を送る国はアメリカと同様、犯罪者なのです。アメリカという犯罪者のパートナーなんですよ。イラクに必要なのは再建であり、軍隊ではありません」

(『週刊朝日』2004年6月4日増大号より)

土井敏邦

ドキュメンタリー『ファルージャ 2004年4月』