ラファ再訪
7月29日(土)
1年ぶりに、エジプトとの国境の街ラファを再訪した。この数年、この街から銃声が途絶えることはなかった。とりわけイスラエル軍が陣地を置く国境近くを取材することが多かった私には、「ラファ」と「銃声」は切り離せなかった。しかし、今はその銃声がまったく聞こえない。
ガザ地区を南北に貫く幹線道路「サラヒディーン道路」の最南端に、かつてエジプトとの出入り口があった。「サラヒディーン・ゲート」と呼ばれたこの場所に、第2次インティファーダ以来、イスラエル軍が陣地を置いた。どす黒い鉄の塊のような不気味なその「櫓(やぐら)」から、イスラエル軍は近づく者に容赦なく銃撃を浴びせた。多くの死傷者を出したこの地区は「死のゲート」と呼ばれるようになった。周辺の住民の家屋は徹底的に破壊され、瓦礫の山となった。
2002年12月、私はイスラエル軍陣地から200メートルほど離れた民家に住み込んだ。イスラエル軍による家屋破壊はすぐ近くまで進行していた。「今度は自分の家が破壊されるかも」という不安、耳をつんざくような軍陣地からの銃撃音の中で暮らす住民の生活を取材することが目的だった。私が住み込んだ家族は、その1年半前、軍陣地の近くにあった3階建ての家を半壊され、少し離れた借家で暮らしていた。その一家の主人イブラヒムは、長年、アラブ首長国での出稼ぎでこつこつと貯めた金で少しずつ建て増ししながら、破壊される数年前に家を完成させたばかりだった。8人の子どもを抱えるイブラヒムはインティファーダ以後、イスラエルでの仕事も失い失業状態が続いていた。借家の家賃も滞りがちだった。
夜毎の激しい銃撃音に、慣れない私は、当初、なかなか寝付かれなかった。住み込みから数日後の夜中、一段と激しい銃撃音に混じってブルドーザーのエンジン音が聞こえた。玄関口に様子を見に行ったイブラヒムが部屋に戻ってきてつぶやいた。
「今、半壊していた自分の家がブルドーザーで完全に破壊されている。しかしどうすることもできない……」
平和になれば、半壊した家を補修し、再び自分の家で暮らすことを期待していたイブラヒムの夢は完全に砕かれた。
それからほぼ1年後、一家が暮していた借家もまたイスラエル軍に破壊された。行き場を失ったイブラヒムの一家は、サッカースタジアムの倉庫で暮らし始めた。あれからさらに2年半が経った。イスラエル軍は去り、銃声は聞こえなくなった。しかしイブラヒムのスタジアム生活はまだ続いている。
ラファには、家を破壊された何千という“イブラヒム一家”がいる。銃声が消え、一見“平和”が戻ったように見えるこの街で、家屋破壊で全財産を失った何万という住民の生きるための闘いは延々と続いているのだ。
かつて銃撃される危険のためにまったく近づけなかった国境沿い、軍陣地前の広場を歩いた。もうあの不気味な“櫓”はない。ただその跡が残っているだけだ。ここでどれほどの住民が撃たれ命を奪われていったことか。1年半ほど前、通学途中の小学生の女の子が学校へ近道しようとこの近くを通ったばかりに銃撃され、その倒れた少女にイスラエル軍の将校が数十発の銃弾を撃ち込み“とどめを刺した”事件が起きたのもここだった。
かつて住み込んだイブラヒムの借家の跡を探した。しかし周辺は完全に破壊され尽くされて瓦礫の山となり、借家のあった場所を特定する手立てもない。その瓦礫の中をさまよいながら、私の脳裏に3年半前のこの周辺のたたずまいと震え上がるような激しい銃撃音が蘇ってきた。
ラファの住民は、ハマス政権誕生後、事態がいっそう悪化する現状なか、ハマスに対してどういう感情を抱いているのか。とりわけハマスらの武装勢力によるイスラエル軍陣地の攻撃とイスラエル兵「拉致」の事件の後、インフラ破壊による電気や水不足、封鎖の強化による物資不足、さらにいっそう激しい侵攻にさらされることになったことに、住民は「ハマスのせいだ」という怒りを抱いていないか。
一般住民の率直な声を聞きだすために、私は通訳と2人で商店街の住民に手当たり次第インタビューして回った。10人の声を聞いた。その結果、事態の悪化の原因がハマスにあると答えた者は1人もいなかった。全員がその原因はイスラエルにあり、“占領”のせいだと答えたのである。「ハマスがやっているのは『テロ』ではない。パレスチナ人の権利を取り戻すために闘っているんだ」というのが大方のハマス評だった。
イスラエルやアメリカなど欧米諸国、そして日本のハマス政権とパレスチナ住民への“兵糧攻め”は、効果はなかったようだ。むしろこの情勢悪化が、パレスチナ人住民をハマスの元に団結させる皮肉な結果になっている──ラファでの私の“世論調査”の結果である。