Webコラム

2006年夏・パレスチナ取材日記 11

公務員の貧困と農地破壊

7月31日(月)

 ハマス政権誕生後、イスラエルによる封鎖強化と欧米諸国、日本などによる援助停止などによって、この数ヵ月、パレスチナ自治政府の公務員への給与未払いが続いている。これがパレスチナ人の貧困をさらに悪化させている。
 しかし、それは街を歩いているだけではなかなか見えてこない。1年前と同じように店頭やマーケットにはモノや食料があふれるように並んでいる。街を歩く人たちや道で遊ぶ子どもたちが、1年前と比べ、げっそりやせこけ、特別に顔色が悪いというほど顕著には見えない。
 ガザの貧困は今に始まったわけではない。10年ほど前、「和平」が順調に進んでいるように思われた時期でさえ、封鎖政策によってイスラエルへの出稼ぎ労働者たちが仕事を失い、貧困が広がりつつあった。先に紹介した栄養失調の子どもの存在は、すでに社会問題になっていた。だからこの春以降の貧困は、これまで恒常的に存在した貧困がいっそう悪化したというべきだろう。
 外見ではなかなか見えにくいこの貧困も、各家庭の事情を知るとその実態が少しわかってくる。
 ハンユニス難民キャンプで暮すある警察官マフムード(34)の家族は妻(34)、姉(42)、そして13歳の長女を頭に4人の子どもがいる。マフムードの給与は1900シェーケル(約400ドル)、うち1500シェーケルが生活費に消えた。しかし春以降、その給与が途絶えると、生活費を捻出するために妻が結婚時に持参したゴールドを売り、親戚、友人から借金した。食材や生活用品も顔見知り商店からツケで手に入れている。収入の途絶えは真っ先に食事に跳ね返ってきた。これまで数日に1度は食べられたチキンなど肉類は、ひと月に1度ほどに激減した。難民キャンプが出来たころからの古い家のトイレを改築するはずだった計画も、まったく見通しが立たなくなった。
 マフムードの友人、ラミも同じく警察官だ。この夏、婚約者と結婚式を挙げるつもりだったが、定期的な収入が途絶え、延期せざるをえなくなった。
 マフムードは6月に自治政府から一時金として300ドルが支給され、7月になってやっと3月分の給与の一部1400シェーケルが支払われた。しかし次にいつ支給されるのかまったくめどがたっていない。

 6月25日以降のイスラエル軍の侵攻で破壊されたのは橋や発電所だけではなかった。ラファ、ハンユニス近郊、そして北部のベイトハヌーンやベイトライヤの農民たちの中には、侵攻した戦車やブルドーザーによって農地を破壊され、生活手段を奪われた者も少なくない。
 かつてガザとハンユニスをつなぐ幹線道路にイスラエル軍の検問所が置かれていたアブ・ホーリー近くに広い農地をもつナーエフ・アブハディートは、1万ドル近い費用をかけて作った野菜栽培のハウスを2週間前に完全に破壊された。「これが最初ではないんです。これまでこの土地は3度も破壊されたんです」とナーエフは、破壊された農地を案内しながら言った。「最初はジャワーファという果物の木を植えていたが、イスラエル軍に破壊された。それで次にオリーブの木を植えました。しかしそれも破壊されてしまった。今度はメロンの栽培を始めるために、4棟のハウスを1万ドルを借金して建てました。しかし2週間前に、戦車がやってきて、全部破壊してしまったんです。土を耕し、メロンの苗を植えるばかりになっていたんです」
 ナーエフの一家は19人家族、その生活手段をまた奪われてしまった。「これからどうやって生活していくんですか」と訊くと、「いろいろなところから借金をして、なんとかやっていくしかない」という答えが返ってきた。
 これまでガザ地区やヨルダン川西岸で、私は何度このような農地破壊の現場を取材したことだろう。戦車やブルドーザーで突然破壊された農地で、途方に暮れる農民の姿を数え切れないほど見てきた。破壊された農地を撮影しながら、また同じようなアングルでカメラを回し、農民に同じ質問を繰り返している自分にふと気づく。長いパレスチナ取材で、パレスチナ人を取り巻く情勢は変化したように見えても、結局、私は同じような現象を繰り返し繰り返し取材し伝え続けている。「第一次インティファーダ」「オスロ合意」「封鎖」「第二次インティファーダ」「ガザ入植地撤退」、幾度もの「協定」「停戦」そしてその「破綻」・・・・と状況は変化しているように見えても、結局、パレスチナ人に起こっていることは何も変わっていなのだ。封鎖、貧困、銃撃、破壊・・・・。「いつまで自分は同じことを繰り返しているんだろう」という空しさが過ぎる。

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