Webコラム

2006年夏・パレスチナ取材日記 14

今まさにガザ地区は“占領”下

8月3日(木)

 インターネット版「ハアレツ」紙や「ガザ人権センター」からの週刊報告などを現地からの情報、またBBCなど欧米のメディア情報を通して、私は日本にいても、ガザ入植地撤退後のガザ情勢をある程度、認識しているつもりでいた。しかし、私がまったく勘違いし、認識できていなかったことが少なくないことが1年ぶりに現地へ戻ってきてわかった。その1つは、ハマス政権とその軍事行動に対する民衆の反応だった。それは住民への街頭インタビューや学生たちとの討論の中で見たとおりである。
 そしてもう1つは、ラファ国境通過の管理状況だった。昨年秋以来、ガザ住民にとって外の世界との唯一の出入り口であるこの国境をパレスチナ人とEUで管理することになり、かつてのようにイスラエル側に出入りを制限されることもなくなった、と私は思い込んでいた。しかし6月25日のパレスチナ武装勢力によるイスラエル軍陣地攻撃以来、ガザ地区とエジプトの境界はイスラエル側によって完全に封鎖されてしまった。これによって、エジプト側からガザ地区に帰るためにエジプト側のラファ国境にやってきたパレスチナ人たちはそこで何日も停滞を余儀なくされ、エジプトで手術を受け帰国する途中だった患者たちをはじめ、10人近いの旅行者が猛烈な暑さ、劣悪な環境などによって死亡した。
 その国境封鎖は今なお続いている。その国境が近々、ほぼ1ヵ月ぶりに開くという情報が先週あたりから広まった。海外に仕事を持つガザ地区出身者が夏休みで帰郷し、封鎖のために仕事に戻れないでいる者、エジプトの病院へ重病の治療に出なければならない住民などが、その日をずっと待ち続けていた。しかしその予定は直前になって、キャンセルされ続けた。管理しているはずのパレスチナ側やEU監視官たちの事情によるものではない。イスラエルによってである。イスラエル側が旅行者たちの国境通過に不可欠なEUの監視官のラファ国境入り阻止すれば国境は開けられなくなる。また直接、国境封鎖を宣告し、武力で実力行使する。つまり今なお実質的にイスラエルが国境の開閉を決定する権限を握っているのだ。
 1日の午後に、「翌日、国境が開く」という情報が広がった。しかしその前夜、国境は開かれないという新たな情報が入った。その情報を知らずに国境にやってくる渡航者がいるかもしれない。2日の朝、私はラファ国境に向かった。
 到着したのは午前10時前、パレスチナ側の国境入り口は閑散としていた。強い日差しを避け、屋根のある店頭に大きな旅行かばんを持った渡航者が数人、そして渡航者たちの荷物を運ぶポーターたちが所在なさそうに座っている。やはり早朝にはエジプト側へ渡ろうとする旅行者たちがたくさんやってきたらしい。しかしこの日も開かないとわかると、大半は引きかえしていったという。
 まだ残っていた家族の母親に話を聞くと、この1ヵ月間、「国境が開く」という情報を得てここへやってきたのは、これで4度目だという。エジプト人と結婚した娘が里帰りし、その娘とエジプトへ行くのだという。母親は私のカメラに向かって、自由な渡航を許さないイスラエルと、それを支援し続けるアメリカへの怒りをぶちまけた。周囲から拍手が起こった。
 スーツケースをさげた熟年の男性はエジプトへ渡ろうとここへ来たのは3度目だという。アラブ首長国連邦で会計の仕事をしているが、夏休みの休暇で故郷のハンユニスに帰ってきた。1ヵ月の休暇を終えて帰ろうとしたら、国境が封鎖されてしまった。もう1ヵ月以上も帰国予定が延びてしまい、カイロからの航空券も有効期限が切れてしまった。仕事復帰の予定が大幅に延びてしまったために仕事を失ってしまうかもしれないという。
 やがて数十人のパレスチナ警察官たちがやってきて、入り口付近にいる渡航予定者やポーターたちにここを立ち去るように命じた。イスラエル側からの通告だという。私たちが現場を立ち去って十数分後、ラファの街に戻ってきたとき、イスラエル軍の戦車の砲撃音が聞こえた。この日の夜中から翌日早朝にかけて、イスラエル軍は国境に近いラファ地区東部に侵攻した。一般住民6人(うち1人は子ども)を含め8人が殺害され、5人の子どもをはじめ20人が負傷した。

 「パレスチナ人権センター」代表のラジ・スラーニは“占領”を「他の国家が、ある地域の一般住民の生活を組織的に支配しコントロールすること」と定義した。昨夏、「ガザ入植地撤退によってガザ地区の占領は終わった」と欧米のメディアは大々的に伝えた。しかしその後、逆に封鎖は強化され、ガザ地区住民の生活は完全に「イスラエルによって組織的に支配されコントロールされ」、その生殺与奪の権を完全に握られている。まさに現在のガザ地区はイスラエルの“占領”下にある。

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