“豊かさ”の代償
8月4日(金)
休日の金曜日、私にとってガザ地区の“家族”ともいえる難民キャンプある家庭を1年半ぶりに再訪した。
アラファトPLO議長とラビン・イスラエル首相が歴史的な握手をした「オスロ合意」調印式から1ヵ月が経った1993年10月、私はガザ地区最大の難民キャンプ、ジャバリアのある家族の元に住み込みを始めた。イスラエル占領への抵抗が最も激しかったこのジャバリア難民キャンプで、1つの家族とその周囲の生活を通して、「オスロ合意」がほんとうにパレスチナ人に“平和”をもたらすのかを定点観測しようと思ったからだ。あれからほぼ10年にわたって、私はこのエルアクラ家の家族の元に通い続けた。1994年と1999年に、この家族の生活を中心に、当時のガザ地区の状況を伝えるドキュメンタリー番組をNHKのETV特集で放映した。昨年秋以来、制作を続けているドキュメンタリー映像「ガザ─『和平合意』はなぜ崩壊したのか─」も、この家族の6年間を中心に構成している。
このエルアクラ家の家族も、この13年間で大きく様変わりした。住み込みを開始した当時、16人家族のうち仕事をもつ者は、イスラエルへ出稼ぎに出ていた当時30歳の青年ファウジ1人だった。他の成年男性たちは学生か失業中だった。とりわけドキュメンタリー映像の主人公、バッサム(当時32歳)はエルアクラ家の長男でありながら、仕事もなく、無為に日々を過ごしていた。学生時代に占領への抵抗運動に参加して2年間イスラエルの刑務所に投獄されたため、イスラエルへの仕事に出ることも難しかった。やがてファウジが封鎖によってイスラエルでの仕事を失うと、やっと臨時教師の職を得た次男ガッサン(当時28歳)が日給11ドルで大家族の生活を支えた。古い平屋の家で、4つの部屋に16人がひしめくように暮す、貧しい家庭だった。
あれから13年、エルアクラ家の状況は大きく変わった。長男バッサムはNGO「パレスチナ人権センター」に職を得て11年になる。今ではガザ市内のマンションに居を構え、3人の娘の父親である。ガッサンはUNRWA(パレスチナ国連難民救済機関)が運営する学校の教師となり、難民キャンプの一角に家をローンで家を建てた。3人の子の父親になった。当時高校生だった3女、アハラムはバッサム同様「人権センター」のスタッフになり、イスラエルでの職を失ったファウジもガザ市内のNGOの仕事につき、5人の父親となった。バッサムの叔父にあたるファイエズは当時、イスラム大学を終え、日本の新聞社の現地通訳などで臨時の収入を得ていたが、今は「赤十字国際委員会」のガザ本部のスタッフとなった。
13年前には親族の援助でリビアに留学中だった3男フサムは現在、フランス・リヨンの大学講師となり教鞭をとっている。高校卒業後、大学に通えず家でぶらぶらしていた4男ヒシャームは、その後リビアに留学、数年前、帰国して大学の教師となったが、今はその大学からエジプトへ派遣され博士号を取るために勉強を続けている。
住居も大きく様変わりした。13年前のぼろぼろの小さな家は、今では3階建ての大きな家になった。1階はファウジ一家、2階はバッサムの両親やその子どもたち、3階は「赤十字」職員ファイエズの家族の住居である。
だが、この家族の13年間の大きな変化を「和平合意の恩恵」と見るのは正しくない。この一家の子どもたちの就職や成功は、「パレスチナ自治」とはあまり関係がないからだ。むしろ貧しい家庭環境のなかでも、子どもたちや弟たちの教育を最優先させてきた家長アブ・バッサム(バッサムのお父さん)の“先見の明”の結果というべきだろう。しかも子どもたちや弟たちの就職先が自治政府やイスラエルに関わる仕事とは無縁だったことが幸いした。現在、ハマス政権潰しのため、イスラエルはアメリカなど欧米諸国、そして日本の応援を得て、パレスチナ自治区の封鎖を強化している。いわゆる“兵糧攻め”だ。このため政府関連の仕事についている人々は3月以来、給与が途絶えて、厳しい生活苦を強いられている。一方、エルアクラ家はほとんどその影響を受けていない。国連や国際機関、海外から直接支援を受けるNGOから収入を得ているからだ。
しかしこの13年間で、エルアクラ家は“昔より豊かな生活”を手に入れた一方、失ったものもある。それは当時あった地域の濃密な人間関係だ。貧弱だったが、当時に家には、いわゆる隣人たちへの“敷居”がなかった。父親やバッサムたちの友人、知人たちがいつもこの家に集まり、談笑し、トランプ遊びに興じていた。まるで小さな集会場、サロンのような家だった。人が集まれば、ウム・バッサム(バッサムのお母さん)は、家計に響くだろうに、惜しみなくお茶やコーヒーを出してもてなした。隣人たちや友人たちは、貧しかったエルアクラ家に何かの利益を求めてやってくるのではない。この家族の貧しくても暖かい雰囲気にひきつけられるように集まってきた。
その後、エルアクラ家をはじめ周囲の家々も建て替えられ、大きく立派な家になった。それに従って、出入りする人の数が減った。それぞれの家庭が立派な家を建て個々の家族の生活を囲い込むことで、他者に対して高い“敷居”を作ってしまったように私には見えた。
とりわけ難民キャンプを出てガザ市という“大都会”で暮すようになったバッサムは、昔と今の人間関係の変化を敏感に感じとっている。
「かつての友人たち、隣人たちとの付き合いはまったく損得を考えない交流でした。しかし今、自分や周囲の人間関係を振り返ると、“インタレスト(利益)”が絡んでいることが多いことに気づきます。それは“タウン・リレーション(街の人間関係)と呼べるものかもしれません。たしかに以前よりは生活は豊かになりました。しかし私はかつての人間関係が恋しくてならないんです」