Webコラム

2006年夏・パレスチナ取材日記 19

パレスチナ内部抗争への住民の目

8月8日(火)

 日本でパレスチナ情勢を見守っている人たちにとって最も暗い気持ちにさせられるのが、「ハマスとファタハの抗争」だろう。“イスラエルの占領”という大きな“敵”を前にしながら、なぜパレスチナ人たちは愚かな内部抗争を繰り返しているのか、と。
 1993年のオスロ合意から第2次インティファーダが始まる2000年までの7年間、ファタハの自治政府(PA)は、アメリカとイスラエルの圧力によって、オスロ合意、「和平プロセス」に反対しイスラエルへの武装闘争を繰り返すハマスやイスラム聖戦を弾圧し、多くの指導者たちを投獄した。しかしその当時でさえ、ハマスの指導者たちは「パレスチナ人同士の内部抗争や内戦は絶対にない。それはパレスチナ人の間の不文律の掟だ」と断言していた。それがなぜこんな状況になってしまったのか。
 当時、ガザ地区でハマスらの弾圧の陣頭指揮をとっていたのは、ガザ地区における当時の治安当局の最高責任者モハマド・ダハラン(45歳)だった。自治政府が誕生した94年、33歳の若さで、アラファトによってガザ地区の治安当局の最高責任者に抜擢され、ハマスなど「オスロ合意」反対派の取り締まり、弾圧で名をはせた。彼がアメリカ政府やイスラエル政府と太いパイプを持つようになったのもこの時期である。アッバスが初代首相となった2003年春には内務大臣となったが、自治政府の「改革」をめぐってアラファトと対立し、アッバス首相辞任と同時に政府を去った。しかし2005年1月、アッバスが選挙で“大統領”に選ばれアラファトの後継者なると、ダハランは再び自治政府の実力者として権勢を振るった。
 ダハランはアメリカから潤沢な資金を得、また“治安当局の最高責任者”の地位を利用した住民からの「集金」によって莫大な資金を蓄え、“忠誠を金で買う”というアラファトの政治手法を踏襲して影響力を広げた、という声はとりわけガザ地区に多い。
 1月の選挙でハマスが政権についた後も、ガザ地区の“防衛治安部隊”はダハランの強い影響下にあるといわれる。多くの住民が、「ハマス」と「ファタハ」の抗争は実は、ハマスとダハラン影響下のこの防衛治安部隊との抗争なのだ指摘する。ハマスにとっても、かつてひどい弾圧を加えたダハラン一派への恨みがある。ダハラン一派側にとっては、これまでの既得権をハマス政権に奪われてしまうことへの強い反発と抵抗があるというのだ。

一般住民は、この内部抗争に失望し、苛立っている。抗争の最も激しいハンユニスで住民の声を聞いた。
 「この内部抗争の唯一の被害者はパレスチナ人住民ですよ。イスラエルと立ち向かうために我われは1つにならなければならないのに」と携帯電話の販売店の主人が言った。「不幸にも前政権は自分たちの地位にしがみつくことに必死になり、パレスチナ社会を改善するためにほとんど何もせず、無為に自治の長い期間を過ごしてしまったんです。そして選挙によってハマスの政府が誕生したのですが、旧政権の幹部たちはその権限を新政府に移譲することを拒否しています。それがこの抗争の背景だと私は思います。新政府は多くの住民によって受け入れられました。しかし前政府の幹部の一部が新政府に干渉しようとしたのです。
 もちろん私たちは今の状況に失望しています。殺される者がファタハのメンバーであろうとハマスであろうと、私たちは同胞を失っているのです。この抗争は私たちの社会の内にも外にも暗い影を落としています。外に対しては、世界中で私たちパレスチナ人の評価を落とし、イメージを低下させてしまいます」
 女性衣服店の経営者も、旧政権のファタハの責任に触れた。
 「ファタハはあらゆることに権限を維持したいんです。ファハタの指導者たちの中には選挙の結果を受け入れられない者もいます。それでアメリカやイスラエルの協力を得て、ハマスは政府のとしての責任を負いきれないということを住民に示すために混沌として社会状況を作り出そうとしているのです。アメリカは『民主主義』をもとめています。しかしそれはアメリカとイスラエルの政治と国益に貢献する『民主主義』なのです」
 一方、ファタハ関係者は「政府となったハマスはもっと理性的に行動すべきです」とハマス側に注文をつけた。「私たちの団結を破壊しようとする分子を追い回すべきではないのです。私たちには闘うべき敵がいるのです。重兵器を持ち、ガザ地区に侵攻する敵です。この敵と戦うために団結しなければなりません。イスラエルとパレスチナの闘争がある限り、“民族団結”がもっとも重要なのです」

 8月7日、ハンユニスのハマス側の代表とファタハ側の代表が“和解”の協定に署名し、内部抗争が終結に向かう希望が生まれた。

次の「2006年夏・パレスチナ取材日記」へ