Webコラム

2006年夏・パレスチナ取材日記 22

市井の声を拾い集める作業

8月13日(日)

 ガザ地区に入って3週間が過ぎた。明日、このガザ地区を去る。当初の取材の目的を果たし終えたから、というわけではない。1年ぶりにガザ地区に戻り、この間、ガザ地区の人々の生活や意識がどう変化したのかを観察し、報告することをめざした。しかしそれはあまりにも大きな仕事で、日本人の私が1ヵ月足らずの取材で納得いく結果を得ようとするのはとても無理だということだけはわかった。
 この1年間、ガザ地区は大きく揺れた。ユダヤ人入植地撤退、パレスチナ選挙によるハマスの勝利とハマス政権の成立、その「懲罰」としてイスラエルによる封鎖の強化、欧米諸国、日本による海外援助の停止、その影響による公務員の給与の停止、さらにハマス武装勢力らによるイスラエル軍基地の攻撃と兵士の捕囚、その報復としてイスラエル軍による空爆と侵攻、インフラの破壊・・・。
 しかし以前とたいして変わらない街の雑踏の様子や道行く人々の表情からは、その変化の実態はなかなか見えてこない。経済状況の実態、人々の心理状況を垣間見ようとすれば、どうしても住民の生活の現場に入り、彼らの声を丹念に拾い集めるしかない。いわゆる「知識人」や「評論家」、「政治指導者」といわれる人物たちにインタビューして、彼らの「解説」で済ませればてっとりばやい。だが、そういう層の人たちは庶民の生活とはかけ離れた世界の住人であることが少なくない。私が知りたいのは、市井の人たちの実生活であり、その中で吐露される心情だった。そのためには、数ヵ月にわたって難民キャンプか下町の民家に住み込み、その家族と近所の人々の生活をつぶさに観察するのが最適の取材方法だと思う。かつて私もそれを試したことがある。それもこのガザ地区だった。
 1993年秋、いわゆる「オスロ合意」の調印直後、私はその「和平合意」がほんとうに民衆の平和な生活に繋がっていくのかを見極めるため、当時、最も占領への抵抗が激しかったジャバリア難民キャンプのある家族の中に住み込み取材を開始した。結局、その家族と周辺の定点観測は断続的に6年間続いた。「オスロ合意こそ現実的な和平への唯一の道」という一部の中東専門家たちの主張やメディア報道にどうしても私が納得できなったのは、その見解とは大きく乖離した現実を現場で見続けてきたからだった。
 しかし、今の私にはその長期の住み込み取材をする時間もエネルギーもなかった。
 今回、私がやったのは、とりわけ深刻な状況にある家族や個人を訪ね歩き、その生活環境と声を拾い集めること。そして手当たり次第に街の住民の声や学生たちの声を聞きまわることだった。その膨大なアラビア語のインタビューを通訳の助けを借りて、丹念に日本語に翻訳していく作業は、投げ出したくなるほど手間のかかる、辛い仕事だった。この3週間のガザ地区のなかで、取材をしている時間よりも、この翻訳作業している時間のほうがはるかに長かったかもしれない。
 しかしこの翻訳作業で住民の声を一語一語、丹念になぞることで、日本では決して想像がつかなかった市井の人々の心情の一片に私は触れたような気がする。語らずにいられない、腹の底から吐き出されるよう言葉を、要約するのではなく、なるべく忠実に起こしていく作業を通して、彼らの怒りと悲しみ、絶望感、その一方、驚くほどの楽観的な希望と願いが生の言葉の端々からひしひしと伝わってくるのだ。
 現場に立つというのはこうことなのだと思う。私のように、日本にいても現場のことを理解しわかってしまう“想像力”と“頭よさ”が欠落しているということは、ジャーナリストとしてそれほどマイナス要因ではないかもしれないと思うことがある。欠落しているからこそ、それを現場に立って自分の五感で知りたいと願う好奇心と欲求を持ち続けていられるのだから。

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