Webコラム

日々の雑感:“郷土を愛する”ということ

2007年1月4日(木)

 “故郷”とは何だろう。晩年の正子ちゃんのあれほど強い郷愁を想うとき、私は改めて考える。それは幼い頃の思い出が沁み込んだ土地、山河であり、私を育んだ家族や親戚、村の人たち、友だち、知り合いなど、成長する過程で自分とつながっていた人たちそのものだと私は思う。
 ジャーナリストの仕事の中で、私は自分が、小さないながら濃密な人間関係で結ばれた村の共同体(コミュニティー)の中で育ったことを心底ありがたいと思うときがある。それは、パレスチナ取材で、農村や難民キャンプの家族の中で住み込み取材をするときだ。パレスチナ社会には、もう先進国の日本の都会、いやもう地方でも失われてしまったコミュニティーが現存し、住民たちや家族は濃密な人間関係、家族関係で結ばれている。それは私が生まれ育った村のコミュニティー、その中の人間関係にとても似通っている。その中にいると、まるで自分の少年時代に戻ったような懐かしさを覚える。私にとって、難民キャンプの濃密な家族、コミュニティーの中で暮らすことは、言葉の不自由さを除けば、決して苦痛ではなく、安らぎでさえある。だからこそ、ガザ地区・ジャバリア難民キャンプのある家族の元に10年近く通い続けることができたのだと思う。

 ただ村で過ごした時代からもう30年以上も経ち、私を育んでくれた村人たちが、帰郷するたびに、1人また1人と櫛の歯が抜けていくように、亡くなったことを知らされる。そのたびにその故郷との絆が断ち切られていくような寂寥感を覚える。今度の正子ちゃんの死がそうだし、何よりも、6年前の母の死は、もう故郷との絆が断ち切られてしまうのではないかと思うほど、大きな衝撃だった。
 それでも、私を育み、人格形成に大きな影響を与えた故郷であることには変わりない。また幼なじみや同級生の中には、故郷に残り、その村や町起しのために奮闘している旧友たちもいる。正子ちゃんの死に号泣した中学の同級生、諸田龍男もその1人だ。佐賀市内のコンピューター会社に勤めながら、故郷の町でPTA活動や文化活動などを通して町起こし運動に奮闘している。高校時代に同じクラスだった江里口秀次は、4つの町が統合されて新たに「郡」から「市」になった小城市の初代市長となり、郷里の活性化のために手腕を振るっている。
 たとえ遠く離れていても、私を生み育んだ故郷の土地と人びとは、私の身体と人格の一部となって息づいている。
 そんな私にとって、“郷土”や“祖国”は“くに”ではあっても、為政者たちが思い描く統治システムとしての「国」「国家」では断じてない。
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(中略)態度を養うこと」。昨年12月に改悪された「教育基本法」はそう謳う。しかし“郷土”を“愛する態度”は、人のつながりを育む“共同体”の中で自然に生まれるものであるはずだ。「経済優先」「構造改革」「合理化」の名の下に、その共同体を破壊し続けながら、「法」によって「郷土愛」を強制しようとしても、それが人びとの心に根付き、自然と湧き起こる感情に成熟するわけがない。むしろ、「愛国心」「郷土愛」の強制によって、戦前のように、個人を国家に従属させ、その国策のために国民に犠牲を強いようとする為政者たちの狡猾な意図が見え隠れする。
 精神科医、中井久夫氏はエッセイ『戦争と平和についての観察』の中でこう書いている。
 「戦争への心理的準備は、国家が個人の生死を越えた存在であるという言説がどこからともなく生まれるあたりから始まる。そして戦争の不可避性と自国の被害者性を強調するところへと徐々に高まっていく」
 為政者たちが「愛国心」「国に奉仕する国民像」を声高に叫び、北朝鮮の「拉致問題」「核実験問題」を前面に打ち出して“被害国・日本”像をマスコミを取り込んで喧伝する現状を目の当たりすると、中井氏の予言は、もう現実のものとなりつつあるような気がしてならない。

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