Webコラム

日々の雑感:ビデオ・ジャーナリストの先達に学ぶ

2007年1月11日(木)

 アメリカの著名なビデオジャーナリスト、ジョン・アルパート氏の講演を聞いた。15回のエミリー賞を受賞したこのアルパート氏は自作12編の象徴的な場面を1,2分から5分ほど紹介し、手短にしかし的確に解説していく。1時間半ほどの講演時間の長さをまったく感じさせないプレゼンテーションのうまさにうなってしまう。何よりも、その取材対象の幅広さに驚かされた。国内の教育、医療問題、麻薬や銃砲の問題、ベトナム料理から、キューバのカスロト首相へのインタビュー、フィリピンのスモーキー・マウンテンで暮す少女の物語、新人民軍が政府軍車輌を急襲する生々しい現場、ニカラグアでレーガン政権に支援されたコントラと闘うサンディニスタ兵士たちの戦闘シーン、湾岸戦争で米軍の空爆に重傷を負ったイラクの子どもたちの実態、そしてイラクにおける米軍病院での負傷した米兵たち・・・・。さまざまな現場で、まるで子どものような生き生きとした好奇心に素直に従い、夢中でカメラを向け回している。もう60歳近いだろうが、その感性と行動力は、若いジャーナリストたちの追随を許さないだろう。
 その語りにも、「大ジャーナリスト」という衒いも奢りも感じさせない。映し出される映像やアルパート氏の語りに引きつけられ夢中になってメモを取ることも忘れ、私の取材ノートには数行のメモしか残っていない。その数少ないメモには、私がとりわけ印象に残った言葉の断片が書きなぐられている。

「現場にいるということの重要さ」
「視聴者を現場へ連れ込む」
「フィリピンの最貧層、スモーキー・マウンテンの住民の実態が、米国民にマルコス政権への支援を再考させるきっかけの1つになった。映像が一国の政策を変えうる」
「誰が正しいか、間違いかを伝えるのではなく、人びとが苦しんでいる姿を伝えること」
「取材をする相手と人間関係を作ることの大切さ」
「現場で暮す住民がもっともその現場のことを知っている。その良いものを称え、悪いものを共に考えようとしている」

 アルパート氏の映像の中には、アメリカ政府の政策に真っ向から疑問を投げかけるものも少なくない。たとえば湾岸戦争時におけるイラク人一般市民の被害、アフガニスタン空爆における住民の被害などだ。それを発表しようとすれば、大手テレビ局は、政府や保守勢力からの圧力、またはテレビ局側の自主規制によって放映を拒み、アルパート氏を解雇する。そのような圧力にも屈せず、「伝えるべきものを伝える」という信念をアルパート氏は貫き通してきた。実際、似たような局面に直面したことのあるジャーナリストなら、それがいかに難しいか、実感しているはずだ。「信念は曲げたくない、しかし生活をしていなければならない」。そのジレンマの中でアルパート氏も悩み苦しんだはずだ。しかし、彼は屈せず、信念を貫きながらビデオジャーナリストとしての仕事を続けてきた。程度の差はあれ、似たような問題に直面し、悩みくじけそうになっている私は鼓舞される。「それを乗り越えきれないなら、ほんとうのジャーナリストの仕事はできないよ」と。

 パネルディスカッションに参加したアルパート氏の奥さん、津野敬子さんは、2ヵ月前、ニューヨークでお会いしたばかりだった。お二人が創設されたDCTV(ダウンタウン・コミュニティ・テレビジョン・センター)の建物の中を案内しながら、津野さんは、「三十数年前にこの古い建物を借りて、自分たちで修理し壁にペンキを塗ることから始まったんですよ」と語ってくれた。オフィスでは若いディレクターたちがパソコンに向かいあって編集作業中だった。NHKで何度も放映され話題になった「アーカンソー州兵と家族」のドキュメンタリーも彼ら若いディレクターたちによって制作されたものだという。
 このDCTVのもう1つの特徴は、地域の若者たちにワークショップを運営し、映像制作の技術を伝えている。大半は、黒人などアメリカ社会で底辺層に置かれた家族出身の青年たちだ。アルパート氏は、「映像表現という技術を身につけることで、nobodyからsomebodyになれる」と励ます。「君たちは社会に否定されながら生きているからこそ、その角度から見えてくるものがあるはずだ。それを生かすんだ」と。
 パネルディスカッションの席上で、津野さんはこう言った。
 「私たちは平和を願う心からこの仕事をしています。私たちのアメリカでの仕事は、アメリカ人が対象です。彼らに、地球上の他の人たちも、私たちと変わらぬ人間なのだというメッセージを届ける、これが私たちの仕事の原点なのです」

 長年、この仕事に携わってきた私も、ジャーナリストとしての初心、原点に立ち返される講演だった。

次の記事へ