1月20日(土)
広河隆一報告会『2007年・パレスチナ・日本』を聞きに行った。広河さんは、私が“パレスチナ”を追うジャーナリストとなる過程での“先導者”、“先達”である。私に限らずパレスチナ関わるジャーナリストたちの中には、程度の差はあれ、広河さんの仕事に触発され、それを目標の一つにしてきた者は少なくないはずだ。1978年、半年のイスラエル・キブツ滞在、ガザ地区とヨルダン川西岸でのパレスチナ難民との出会いが契機となって、私はパレスチナ問題を学び始めた。その時の道標の1つとなったのが広河さんの著書だった。卒業論文『パレスチナ人の人権に関する一考察』を書き上げたとき、私はそれを広河さんに読んでもらうために上京した。これがきっかけで、1年後、私は広河さんに誘われて、彼が編集長だった月刊誌『フィラスティーン・ビラーディ(パレスチナ・わが祖国)』の編集記者となった。これが、私のジャーナリストとしての出発点となった。もう四半世紀も前のことだ。
その後10数年、広河さんとの交流は途絶えていたが、2002年夏、「日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)」をいっしょに立ち上げたことを契機に再び付き合い始まった。この会の活動を通して、“ジャーナリストとしてのセンス”について広河さんから教えられたことがある。それは国内外の政治・社会の危険な動き、不条理、理不尽さ、不正義に対する鋭い“嗅覚”と激しい“義憤”である。
JVJA立ち上げのきっかけとなったパレスチナ・ジェニン難民キャンプへのイスラエル軍侵攻に関する報道で、『朝日新聞』が「ジェニン虐殺疑惑『証拠みつからず』国連が報告書発表」と報じたときである。広河さんと同様、包囲解除の直後の現場を取材した私は、その記事に「そんな馬鹿な」という違和感はあったが、それに対して何か行動を起さなければとは正直、思わなかった。現場を取材した他のJVJA会員のジャーナリストたちも同様だったにちがいない。しかし広河さんは違っていた。「こんな報道を許していいのか。現場を取材したジャーナリストはなぜこんな記事に怒らないのか」と私たちを叱責した。私たちはそんな広河さんに促され、会員たちは手分けして国連の報告書(英語)を全文読み込んだ。そして「ジェニン虐殺疑惑『証拠みつからず』」という一文、それに類する言葉はまったくないことを発見した。JVJAがこの記事に抗議する声明を発表したのはその直後だった。
当時、60歳になろうとする広河さんの“義憤”を目の当たりにしたとき、私はこの人の少年のような瑞々(みずみず)しい“感性”と“純粋さ”を見せつけられる思いがした。それは逆に、10歳も若いはずの自分の“感性”の鈍さ、ジャーナリストとしてのセンスの欠落を思い知られることでもあった。
今回の報告会『2007年・パレスチナ・日本』で広河さんの映像の仕事を見て、「やはり、凄い」と改めて思ったことがある。それは、関わったテーマへの“こだわり”、別の表現をすれば “執着力”“情熱の持続力”である。40年も前、20代前半に抱いた「キブツの土地に残るサボテンや建物の跡はいったい何のか」という疑問を、レバノン情勢、チェルノブイリなどの取材で中断されることはあっても、60歳半ばまで追い続け、これを一方で写真集としてまとめ上げ、そして今回、膨大な映像ドキュメンタリーとしてまとめあげようとする──もうこれは“執念”というしかない。“物事を追う”ということは、雑誌の掲載やテレビ番組の放映までの「短期決戦で終了する取材」ではなく、一生を通して関わり続け、“こだわり”続けることなのだ。つまり ジャーナリストとしての“取材するテーマと対象”に対する“誠実さ”である。そのことを広河さんは、私たち後輩のジャーナリストたちに自らの実践を通して教示している。
同じく“パレスチナ”を追う私は、1948年のナクバ(パレスチナ人の大惨劇)を改めて検証しようという情熱はない。キブツ時代に広河さんが体験した、衝き動かされるような強い動機づけがないからだ。それがなければ絶対続かない。しかし、私には“パレスチナ”と関わり続ける別の動機づけはある。それは1985年以来、私がガザ地区やヨルダン川西岸で目の当たりにし続け、自分の脳裏に焼きついている“占領下で生きる人々の姿”だ。私がこれからも“パレスチナ”に関わり続けるかどうかは、この動機づけをどこまで自分の血肉にできているかどうかにかかっている。いま私は、長大なパレスチナ・ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声』の編集作業に、独りで朝から晩まで自宅の部屋にこもって格闘している。“終わり”の展望がまったく見えない、単調で孤独な作業のなか、「ほんとうにできるのだろうか」「この映像はほんとうに映画として通用するのだろうか」という不安と迷いの中で潰れそうになる。しかし私は、潰れ、すべてを投げ出すわけにはいかないのだ。敢えて取材に応じ、「伝えてほしい」と私に託したあの人たちのことを伝える義務と責任が私にはある。それと同時に、私にとっても、これまで20年以上もの歳月をかけ“パレスチナ”と関わり続けてきた自分自身の“生きてきた奇跡”を意味づけるために、放棄するわけにはいかないのである。
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