2007年3月27日(火)
ジェニン再訪
予定していた今日のイスラエル内での取材が難しくなり、ジェニンに向かうことにした。2002年4月のイスラエル軍のジェニン難民キャンプへの侵攻から5年、私のドキュメンタリー映画の第三部ではこのジェニン侵攻を扱うため、当時取材した住民たちが5年後、どういう生活を送っているのかを映画の中で紹介したいと考えたからだ。
当時、私の取材を支えてくれたジェニン難民キャンプ住民のコーディネーター兼通訳と昨日、やっと連絡が取れた。公務員の彼は、現在、1週間ほど休暇をとっているとのことだった。彼に再び通訳をしてもらう絶好の機会だ。
東エルサレムからラマラへ乗合タクシー(5.2シェーケル)で直行し、ラマラでジェニンへ直行する乗合タクシー(35シェーケル)に乗り継ぐ。ヨルダン川西岸の入植地を結ぶユダヤ人専用道路を突っ走った。パレスチナ人でもタクシーの免許のある車は通行できるという。かつてのようにイスラエル軍の検問所を避けるために山道を走って遠回りする必要もなく、入り口の検問が厳しいナブルス市を経由する必要もない。数箇所イスラエル軍の検問所はあるが、パスポートのチェックをする検問所は一箇所だけで、あとは止められることもなく、すんなり通過できた。しかしエルサレムへ戻るときはこうはいかないと、ラマラから同行した「キャンペーン」の石原さんが言う。沿道には、菜の花に似た黄色の花があちこちに点在し、所々で真っ赤な花がアクセントをつける。芥子の花だ。「2ヵ月ほど気候が遅れている」と長年現地で暮らす石原さんが言うほど肌寒い日々が続くが、自然の野花はもう温かい春を待ちきれずに咲き乱れている。
昨日から、1年半前に撤退したはずのナブルス近郊の入植地に、入植者たちが戻ってきて再建のデモンストレーションをやっているため、少々迂回したが、それでもラマラから2時間ほどで目的地に到着した。エルサレムを出たのが8時前、そして11時にはもうジェニン難民キャンプに降り立っていた。5年前の侵攻当時には考えられないほど、便利になった。しかし逆に言えば、それだけイスラエルによるヨルダン川西岸の管理・組織化が徹底してきたということだ。つまりヨルダン川西岸のパレスチナ人たちは完全にイスラエルの“手の平”の上で動きまわる状況に追い込まれているということだろう。国境の検問所のように最新の探知機や器械でシステム化されたカランディアやベツレヘムの検問所を見るとその思いをますます強くする。
ジェニン難民キャンプを再訪するのは、侵攻以来、5年ぶりというわけではない。実は3年前、国連のUNRWAのジェニン・ツアーに参加し、ほぼ2年ぶりに再訪している。それは侵攻で家々が完全に破壊され瓦礫の山となった難民キャンプの中心部、ハワシーン地区に、アラブ首長国連邦の援助で住居が再建され、その開所式が行われた時だった。大地震の直後のように瓦礫が一面に広がっていたハワシーン地区に真新しい家々がぎっしりと建ち並ぶ様は、目を疑うほどだった。「ジェニン侵攻と虐殺の歴史事実の証拠が消されてしまう」と批判する者もいる。しかし家を破壊され、行き場を失ったままだった1000人近い住民にとって、何よりも生活の基盤を取り戻すことが最優先だった。前述の批判をする外部の者たちは、住処を失った住民のために代替の家を提供してくれるわけでもない。高い位置から見下ろすように批判するだけで、肝心の住民のために何もしてくれるわけでもないのだ。
再会した通訳のイマドと共に、“その後”が一番気になっていたヤヒヤ・ヒンディーを訪ねた。自宅跡の瓦礫の下に埋もれてしまった約300万円相当の現金とゴールドを探すために、破壊から1ヵ月経ってもひたすら瓦礫を掘り続けていた男性である。
車の塗装工の仕事を続けているという情報を元に、難民キャンプの修理工場が建ち並ぶ地区を訪ね歩く。やっと探し当てたヤヒヤは、廃棄された車の車体を磨いている最中だった。連日現場にやってきてカメラを回し続けた私のことをヤヒヤは覚えていた。私の脳裏に焼きついている、世界の不幸を一身に背負ってしまったような当時の陰湿で暗い表情とは違い、笑顔で私と握手を交わした。真っ先に一番知りたかった質問をした。「あの大金は結局みつかったんですか」。彼は頭を横に振った。「いいえ、結局だめでした」。年金もない自由業の自分と家族の将来のために20年近く塗装工の仕事でこつこつと貯めてきた大金を彼はすべて失ってしまったのだ。
もう一つ、ヤヒヤのことで記録に残っているのが、当時5歳の息子だった。私が彼にインタビューしているとき、相手にしてもらえないことに苛立ち、父親の腕に噛みついた。ヤヒヤが平手で頬を打つと、息子は金切り声を上げて泣き叫んだ。私はカメラをインタビューしていたヤヒヤからその息子に移した。その行動の異常さに気付いたからだ。「家がミサイルで砲撃され破壊されるのを目の当たりにした衝撃のためでしょう。あれからこの子は自分の感情を抑えられなくなりました。だから叱るにも叱れないんです」。ヤヒヤは泣き叫ぶ息子に目をやりながら、そう私に語った。
そして5年後、新築されたヤヒヤの家を訪ね、その息子アハマドと再会した。身体は大きくなったが、視線が定まらない。そして言葉にならない奇声を上げる。同行した通訳のイマドが、アハマドが発する「言葉」はまったく理解できないという。つまり言語ではないというのだ。ヤヒヤは、「身体は大きくなったが、脳は幼児のままなんです」と言う。双子の姉と比べると、身体の成長も遅れている。ヤヒヤによれば、アハマドは生来、精神的な障害を持っていたが、5歳のときに体験したイスラエル軍による家の破壊を体験してその症状がさらに悪化したというのだ。テレビのスイッチやコーヒーカップの取っ手、家具などを手当たり次第に壊してしまう。また通りに出て奇声を上げたり、行きかう女性たちに近づいて衣服に顔をあて香水の匂いをくんくんと嗅いだいりする異常な行動を起すために、家族は目を離せない。もちろん学校は行けず、障害者の施設さえ彼の入所を断ったという。
一度、ヨルダンの専門医に診察してもらったが、まったく治療の方法はないと宣告された。今はまだ、身体が小さいから父親が力で制止できるが、これからさらにアハマドの身体が成長すれば、父親のヤヒヤでさえ抑えられなくなる。ヤヒヤはそのことを一番心配している。狭いながらも、住居は確保できた。しかしヒンディー一家の苦難は5年経った今も続いていた。
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