2007年4月3日(火)
ジェニン虐殺5周年の集会と武装青年たち
昨日の朝、トゥバスからジェニンに向かう途上、またイスラエル軍の検問所があり、長い車の列ができていた。ヨルダン渓谷からトゥバスへの途上でも、そうだった。兵士たちの気分次第で、たいしたチェックもなく通過できるときもあれば、車から全員が降ろされ、身分証明書はもちろん、持ち物の中、車の隅々までチェックされることがある。運が悪ければ、1、2時間も待たされることがあるという。“占領”とはどういうものかを理解する一番簡単な方法は、この検問を体験してみることかもしれない。
ジェニンに戻ってきたのは、今日行われるジェニン虐殺5周年の記念集会を取材するためだった。集合場所としてポスターに記されているジェニン市内の中心街に、自動小銃を手にした青年たちが続々集まってきたのは、予定を1時間も回った午後1時半ごろだった。いわゆる「武装勢力」の男たちである。100人を超えるだろうか。中にはイスラエル軍兵士のユニフォームとヘルメットを身に付けた青年もいる。集まってきた市民も男たちばかりだ。通りを埋め尽くすほど群集が集まったころ、武装勢力の男たちが空中に向けて銃を連射し始めた。耳をつんざくような銃撃音があちこちから響き渡る。カメラを回しているから耳を塞ぐこともできない。鼓膜が破れるのではないかと思うほどの大きな銃撃音だ。
やがてアジテーションをがなりたてるスピーカーとパレスチナの旗をつけた車を先頭に1キロほど離れた難民キャンプへ向けて移動し始めた。私も1台の車の荷台に乗り込み、その武装青年たちの列を撮影した。気勢を上げるためか、とにかくやたらと発砲する。以前、通訳のイマードが私に言った。「あの銃弾1発は5シェーケル(約150円)もするんですよ。それがどこから入ってくると思いますか? イスラエルからですよ。大金をはたいてイスラエルから買うんです。そんな大金がいったいどこから入ってくると思いますか」と言ってイマードはにんまりと笑った。
集会場所となるジェニン難民キャンプの墓地横の広場に着くと、武器を持った男たちがいっせいに走り出し、会場のひな壇へと駆け上っていく。銃声がいっそう激しくなり、広場に響き渡る。まるで花火でも打ち上げられているような大騒音である。演説のために作られたひな壇の両側に続くコンクリートの観覧席は武装勢力の男たちで埋め尽くされた。高さ数メートルのひな壇を囲むように、広場には難民キャンプの住民を中心に1千人ほどの群集が集まった。前方は男性、後方には女性たちが群がっている。私はひな壇に上がり、両側に並ぶ100人を超える武装勢力の男たちにカメラを向けた。覆面をしている青年たちはほんのわずか、大半は素顔をさらしたままだ。私だけではない。外国人を含む10人近いカメラマンたちが撮影している。それでも誰も撮影を阻止したりしない。むしろ銃も持って誇らしげにカメラに向かって立つ。中にはイスラエルの“協力者”がいるにちがない。身元が分かれば、指名手配されイスラエル軍特殊部隊の標的になることはわかっているはずなのに、あまりにも無防備である。
やがて爆弾を身体に巻いた白装束の男たちが列を成して現われた。自爆実行者を模した青年たちだ。武器を持って並ぶ「武装勢力」の青年たちの前に、少年たちが群がり羨望の目でじっと見つめている。学校を卒業しても職もなく、将来の希望もない子どもたちは、「カッコいい」武装勢力の青年たちに憧れ、「僕も将来・・・」と夢見ているのだろうか。
ひな壇からの撮影を終え、私が集会の後方にいる女性たちと子供たちを撮影したとき、突然、ひな壇から銃声が鳴り響いた。壇にはたくさんの武装した青年たちが並んでいたが、彼らが小競り合いをはじめ、空中に威嚇の射撃を始めたのだ。流れ弾に当たるのを恐れ、集会に参加していた群衆の一部が走って逃げ始めた。主催者たちも彼らを制止できないでいる。
このデモが始まる前、私は数日前に取材したヤヒヤを訪ねた。彼がデモに参加するかもしれない、もしそうならばデモ中の彼に焦点を合わせて撮影しようと考えたからだった。ヤヒヤはいつも通り、小さな工場で塗装準備の仕事中だった。通訳のイマードが、「今日の集会には参加しないんですか」と訊くと、ヤヒヤはこう答えた。「集会には出ません。“いい人たち”は5年前のあの闘いの中でみんな死んでしまいました。今残って、この集会をやる連中は、“たちの悪い連中”です。それにデモや集会に出ると、あの当時のことを思い出して辛くなるんです。だから出ません」
ジェニン難民キャンプに隣接する公立のジェニン病院には、たくさんの武装した青年たちが寝泊りしているという。彼らは、イスラエル軍は国際世論の非難を恐れ、病院内への立ち入りを躊躇することを知っているから、“避難場所”にしているのだ。病院の責任者も青年たちの立ち入りを断れない。もしそうすれば危害を加えられるからだという。もちろんイスラエル軍は病院内に武装グループが隠れていることを熟知している。だから、外の隠れた場所から、武装青年たちが病院から出てくるのをじっと待っている。出てきた瞬間、青年たちを射殺する。実際、1ヵ月ほど前、病院の門前で、銃を持って外へ出た青年が射殺された。同じころ、病院から出て車で難民キャンプを走っていた3人の武装青年たちも、キャンプの通りで、追跡してきた特殊部隊に全員射殺されている。
今日のデモや集会に象徴的に現われているように、パレスチナ人の武装勢力の青年たちは、やたらと粋がる。まるで、子どものように、住民に向けて「俺たちは強いんだ」とばかり、銃を撃ちまくってカッコづける。闘うほんとうの “敵”に向かって放たれるべき貴重な銃弾を、まったく無駄に撃ちまくって、粋がるのだ。その行動は、“幼稚な子ども”としか言いようがない。彼らの行動を間近で目撃する機会の多い、あるパレスチナ人によれば、彼らは、まったく無防備に携帯で仲間たちと頻繁に連絡を取り合うという。その情報がイスラエル軍に盗聴されていることもまったく気づいていないのだ。実際、携帯電話で隠れ場所を連絡しあった直後、その場所がイスラエル軍に急襲され全員が射殺されたという。
優れた武器を持ち、訓練され尽くされ、綿密な作戦の元に動くイスラエル軍にこんな武装勢力が太刀打ちできるわけがない。このデモや集会で観る武装勢力の男たちの行動や、パレスチナ人同士で殺し合いを繰り返すガザ地区の状況を見ていて、つくづく思うのは、武力と戦術、そして統率力では、パレスチナ人はイスラエルの敵ではないということだ。プロの野球選手と草野球の少年とが試合をやるようなものだ。
銃を撃ちまくり、スピーカーから大声でがなりたてる集会に辟易して、私は会場に隣接する墓地へ向かった。2002年のイスラエル軍侵攻時の犠牲者が眠る墓地の一角に、墓石の前に座り込んだまま、じっと動かない老婆がいた。息子の墓なのだろう。墓石を手でなでながら、悲痛な表情でうつむいている。ときどき近くの草花をむしり取る。隣の集会場からスピーカーで叫ぶ声が聞こえてくるなか、老婆はそれとは別世界にいるように、ただじっと墓石をみつめている。泣いているのか。それを判別するために近寄るのもはばかられるほど厳粛な姿だった。あれから5年、息子を失ったこの年月を、この老婆はどういう思いで生きてきたのだろう。一家の大黒柱だったかもしれない息子のいない一家はどういう生活を強いられてきたのだろう。
少し離れたところからカメラを向ける私に気付いて、老婆はふっと顔をこちらに向けた。しかし、私の撮影を制止するわけでもなく、また視線を墓石に移して、墓石をいとおしむようになで続けた。
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