2007年4月9日(月)
ヨルダン渓谷の農産物の販売ルート
昨日の夕方、アブ・アハマドの長男アハマドと三男のジハードが車で農家から野菜を集荷するのに同行した。ファミリーの長であり、広い農地を持つ農民であるアブ・アハマドは、農家から農作物を集荷し、それを30キロほど離れたヨルダン川西岸の大都市ナブルスの市場に出荷する仕事もしている。この日は、ある農家からぶどうの葉の束を10箱ほど集荷した。ぶどうの葉に米や肉を巻いて蒸すパレスチナ料理の材料に欠かせない“野菜”である。1キロを10シェーケル(約300円)で市場に売る予定だ。
今朝、父親に代わって今日は長男のアハマドが自家用車のフォードのバンでナブルス市へ出かけることになった。海抜下にあるヨルダン渓谷のジフトゥリック村から、標高1000メートル近いナブルスまで相当の高低差がある。しかしこのバンも前日の通学バスに引けを取らないほどおんぼろで、ちょっとした坂道でもすぐにエンストしてしまう。しかもアハマドの運転の腕は、お世辞にもうまいとはいえない。ほんとうにナブルスまで行き着けるのだろかと不安になったが、ヨルダン渓谷で生産される農作物がどのように販売されていくのを知るためには絶対欠かせない重要な取材だ。
あたりが白みかけた午前6時すぎ、バンの後部座席にぶどうの葉の箱を積み、車は出発した。意外と順調に走りだした。早朝で車の量が少ないことも、運転が危なっかしいアハマドに幸いした。途中、農家の軒先で、さらに10箱ほどのぶどうの葉の箱を積んだ。
私がいちばん気がかりだったのは、ジフトゥリック村からほど近い道路にあるイスラエルの検問所だった。ヨルダン渓谷とジェニン、ナブルスなどとを結ぶ幹線道路の途上にある「ハムラ」と呼ばれる検問所である。毎朝、ここには長い車の列が出来、運が悪いときは、2、3時間も足止めされると聞いていた。早朝、カメラを持った日本人がヨルダン渓谷からやってきたことを不審がり、長時間尋問されるのではないかと心配した。しかしこの日は、兵士がアハマドの身分証明書と私のパスポートにちらりと目をやると、そのまま通過を許した。
ジフトゥリック村からナブルスへの道程は、豊かな緑の畑が延々と続く。またヨルダン川西岸では珍しい深い渓谷があり、その渓流には豊かな水が流れている。こんなに緑の美しいパレスチナの光景を見たのは久しぶりだ。
途中何度かエンストしながらも、1時間ほどでナブルスの市街地が見えてきた。しかし車は市街地へは向かわず、郊外の方向に向かった。やがて車は広い市場に着いた。野球場ほどもある広大な敷地に、野菜や果物の箱が山積みされ、所狭しと並んでいる。売り買いする男たちが野菜や果物の山の前に群がる。あちこちから競り合う男たちの威勢のいい声が上がり、市場中に響き渡る。日本で見る野菜市場とほとんど同じだ。私はこれまで何度もナブルスを訪ねているが、これほど巨大な野菜市場があることを知らなかった。トルカレム、ジェニン、カバティアなどヨルダン川西岸北部の各地から農作物がここに集まってきている。一方、ヘブライ語文字の箱に詰められたりんごやオレンジ、アブカドなどの果物もあちこちで目につく。野菜は西岸の農作物、果物はイスラエル産と仲買人の一人に説明されたが、山積みされたニンジンやニンニクもイスラエル産だった。西岸のパレスチナ人の食生活にいかにイスラエルの農産物が浸透しているか、この市場を見るだけでもわかる。
この市場は、ナブルス市内外の野菜の仲買人や八百屋の商店主たちが農産物を競り買う、いわゆるナブルスの“台所”である。ヨルダン渓谷北部の農村にとって、ここが最大のマーケットにちがいない。それにしても、アブ・アハマドの小さなバンに積めるほど少量の販売のやり方ではたしかに農業で生活を支えるだけの収入には繋がらないだろう。もっときちんとシステム化された販売ルートが確立されないと、農業の発展は見込めない。
もう1つジフトゥリック村などヨルダン渓谷の農民にとって大きな障害は、ハムラなどイスラエルの検問所である。ここが封鎖されれば、ナブルスなど大都市への販売はできなくなる。つまりイスラエル軍の判断に、ジフトゥリック村の農業の生死の鍵が握られているといっていい。ジフトゥリック村をはじめとするヨルダン渓谷の農村の生殺与奪の権利は、この地域を管轄するイスラエルの手の中にあるということだ。最終的には、この“占領の構造”からヨルダン渓谷の住民が抜け出せない限り、経済的な自立はありえず、ユダヤ人入植地に依存する経済構造は維持され続けることになる。しかし、イスラエルは国家の“セキュリティー”を理由に、このヨルダン渓谷の支配権をパレスチナ側に容易に譲り渡すことはしないだろう。イスラエルに大きな影響力を持つアメリカも、そのために圧力を加えることもしないだろうし、できないだろう。ましてや日本の「平和と繁栄の回廊」プロジェクトが、イスラエルに譲歩の道を拓かせ、将来、ヨルダン渓谷の占領の終結につながるなどという幻想を日本の外務省やJICAが振りまこうするなら、あまりにもこの地域の政治現実を無視したおとぎ話である。
ジフトゥリック村にもう1つ学校がある。2年ほど前に開設された男女共学の公立中学校だ。昨年夏、NGOスタッフに案内されてここを訪ねたとき、学校はまだテント教室だった。以前この村には中学校がなく、小学校を卒業した子どもたちはジェリコかトゥバス、またはナブルスの中学校に通わなければならなかった。しかしそれは経済的な負担が大きく、また子どもの数も増え、イスラエル当局から校舎の建設の許可が下りないまま、テント教室から中学校がスタートした。その後、粘り強い申請と交渉の結果、昨年、やっと学校建設が認可された。パレスチナ電話会社や村人などの寄金によって、ブロック造り、トタン屋根の学校ができた。教室は5つ、そして質素ながら職員室もできた。しかし実験室もない。
生徒は103人、うち65%は女子生徒である。1クラス30人ほどの教室に、前方が男子生徒、後方は女子生徒が席を分ける共学である。パレスチナ社会では、通常、小学校から男女別学だが、施設の乏しいこの村で、そうも言っていられないのだ。トタンの屋根にむき出しのブロック壁、コンクリートの床、それに机と椅子、そして黒板だけの質素な教室だ。それでも昨年までのテント教室よりはるかに環境は整った。
10人ほどいる教員は地元ジフトゥリック村からだけでなく、ジェニンやトゥバス、遠くはヘブロンからやってきた教員もいる。彼らは学校に隣接する宿泊施設で寝泊りしている。ヘブロン出身の20代の男性教師は1、2ヵ月に1度しか実家へ帰らないという。荒野の一角にぽつんと建っている学校施設で寝泊りし、仕事をする毎日。衛星放送を受信できるテレビ以外には娯楽設備もなく、外は荒野で遊ぶ場所もない。若い独身男性には辛い孤独な生活に違いない。「なぜこんな辺鄙なところへ赴任してきたのか」と訊くと、あの出稼ぎ労働者たちと同様、「ヘブロンには仕事がなかった」とこの若い男性教員は答えた。
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