Webコラム

日々の雑感 195:
レバノンへの旅(10)

2010年9月18日(土)[2] ドクター・スゥイの語り(2)

ドクター・スゥイの語り(1)の続き)

 イスラエル軍が難民キャンプを包囲したのは9月15日でした。そして翌日の16日から住民が銃撃され殺され始め、17日、18日と続きました。その間、私は休みなく、ガザ病院の地下にあった手術室でずっと手術を続けていました。
 運ばれてくる患者の大半は、手術室に到着する前に息絶えていました。虐殺はまったく武器を持たない住民に対して行われたため、防ぐ手段がなかったのです。イスラエル軍の同盟軍であった武装集団ファランジストが難民キャンプに入り、住民の避難場所にまで侵入し、そこにいた全ての住民を撃ったのです。28年経った今でも、だれが虐殺の引き金を引いたのか議論されています。しかしそれは明らかです。私はユダヤ人の友人と話をしました。その人は私にこう言ったのです。
 「当時、虐殺の引き金を引ける者は多くはありませんでした。引き金を引いたのは、ファランジストたちを支援していた者です。彼らが難民キャンプに入ることを許し、そのための手引きをしたのは誰なのか。それはイスラエル軍でした。彼らが難民キャンプを包囲していたので、住民の誰も外へ逃れることはできなかったのです。イスラエル軍はさらに空中に照明弾を上げて虐殺を助けました。難民キャンプには住民を守る者は誰もいませんでした。武装勢力は全員が撤退していたからです。そして難民キャンプに残っていたのは、民間人、つまり女性、老人たち、そして子どもたちでした。彼らが殺されたのです」
 虐殺の最後の日、つまり9月18日、私たち手術チームの医者や看護師たちは地下から地上に上がり、レバノンの武装集団の司令官のところへ連行されました。私はそれまでの3日間、ずっと地下にいたので、陽の光を目にすることはありませんでした。地上に上がると、陽の光が私の目を打ちました。
 地上ではいたるところで死体を目にしました。もちろん病院の地下の手術室にやってくる患者たちから、地上で何が起こっているのか話は聞いていました。手術室で私たちは運ばれてくる患者の2、30人の命を救うことができたのですが、地上の難民キャンプの中ででは、それをはるかに超えるたくさんの住民が虐殺されていたのです。その遺体が難民キャンプの中にさらけ出されていました。難民キャンプの大通りを歩いたとき、その現実を目の当たりにしたのです。地下にやってくるパレスチナ人から聞いたことが疑う余地もない事実だったことが否が応でも思い知らされました。難民キャンプの遺体がその事実を如実に物語っていたのです。それは紛れもなくパレスチナ人に起こった歴史の証拠でした。
 私には衝撃的な出来事でした。殺された住民の中には、ほんの2、3週間前に会ったばかりの人たちもいました。私が友人のところへ連れて行った子がいました。その子も殺されていたのです。

 それが、その後の28年間に及ぶパレスチナ人との旅、つまりパレスチナ人との関わりの始まりでした。サブラ・シャティーラから出た後も、私は現場へ戻りたいと思いました。誰がまだ生き残っているのか、少なくても誰が殺されたのかを知りたかったのです。何人の友人の医者や看護師、また何人の患者が殺されたのか、または生き延びているのかを知りたかったのです。ガザ病院では医者や看護師が殺害されることはありませんでしたが、近くのアッカ病院では殺戮が起こっていたのです。中にはレイプされた者もいました。

 虐殺の後、難民キャンプにはあまりに多くの死体があったため、キャンプは封鎖されました。通りに放置されていた遺体を集団墓地に埋葬しなければなりませんでした。腐敗した遺体から伝染病が広がるのを防がなければならなかったのです。
 一旦、難民キャンプから避難した後、再び現場に戻ると、すべての住民が殺されたわけではないことがわかりました。私は打ちひしがれていましたが、神は子どもたちに新たな力をお与えになりました。ある日、難民キャンプの中で子どもたちの集団に会いました。1人は腕を骨折した私の患者でした。私を見ると、「中国人のお医者さんが戻ってきた!」と叫んで、私に腕を回し泣き始めました。その子は私も殺されたと思っていたのです。その子は虐殺で両親を失い、孤児になっているのがわかりました。やがてたくさんの子どもたちがやってきました。そして自分たちの写真を撮ってくれとせがみました。彼らの写真を撮り始めると、彼らはVサインを突き出したのです。そして「僕たちは怖がったりしないんだ。イスラエル軍なんか怖くはない。来るなら来い!」と言ったんです。私は写真を撮りました。子どもたちは、私にこの写真を世界中で見せてほしいと言いました。「もしかしたら、明日になれば、サブラ・シャティーラ難民キャンプは地図の上から消されるかもしれない。でも今日は、僕たちはここにいる。サブラ・シャティーラの子どもたちは怖がったりはしないんだ」と。

Q・あなた自身は殺される危険に直面したことはなかったのですか?

 朝方、ファランジストが外国人である私たち22人全員を連れ出しました。そしてサブラ難民キャンプの大通りに連れていかれました。私は自分たちのことよりも、道端に立たされている女性や子どもたちが殺されるのではないかと心配でなりませんでした。通りを歩いているとき、1人の母親が私に赤ん坊を渡そうとしました。その子を安全な場所に避難させたかったのでしょう。しかし後にその母親も子どもも殺されたことを知りました。そんな状況でしたから、自分が殺されようとしているという意識はあまりありませんでした。自分の心は他のことに向いていたからです。病院の患者たちのこと、道端に並ばされている住民のことで私の頭の中はいっぱいでした。
 私たちはユニセフの建物の庭に連れていかれました。エレンが証言しているように、そこで持ち物を全部取り上げられました。いつ殺されてもおかしくない状況でした。しかし神は慈悲深く、私たちの命をお救いになりました。だから今、パレスチナ人のことを伝えることができるのです。私はいつもこのように考えています。パレスチナ人の旅、つまりナクバと離散はパレスチナ人にとってもとても辛いもので暗黒なものでした。しかし神は彼らに“友人”を与えられました。私はその1人です。

 私は、神に祈り、神に語りかけました。私の人生のそれまでの30年間は、イスラエルという国を支持してきました。その国について真実の話を知ることもなく、私はパレスチナ人やアラブ人を憎んできました。そして「これからの30年は、パレスチナ人たちを支援させてください。その過ちを償うためにパレスチナ人のために何かをさせてください。少なくとも彼らの友人にさせてください」と神に祈りました。
 それが「28年間もなぜ通い続けるのか」というあなたの質問に対する私の答えです。

 これはとても大切なことです。人間として私には義務があります。また多くの恩恵も受けました。それはパレスチナ人と出会い、彼らと“友人”になれたことです。彼らも私が“友人”であることを認めてくれます。これが私に与えられた恩恵です。その友人として、また虐殺の生存者としての私の義務は、何が起こったかを世界の人びとに伝えることです。
 私はかつて事実がまったく見えていなかったシオニストでした。しかし神が私を導き、その現実を見せてくださったのです。私の考えを変えるためにです。これがパレスチナ人に対する私の義務です。
 私は医者です。医者としてパレスチナ人のためにプロジェクトを立ち上げなければならないときもありました。ロンドンで慈善活動を開始しました。「パレスチナ人のための医療支援」という団体を立ち上げました。その一方で、パレスチナ人以外の世界各地の人びとのための慈善活動も始めました。だからパレスチナ人のための活動はほんのわずかな部分でしたが、私は虐殺の目撃者として、また友人として、私は“パレスチナ人”について外の世界に向かって伝えていく義務があります。そうすることで、私が彼らのことを今知っているように、パレスチナ人について世界中の人たちに知ってもらうためにです。

Q・つまりベイルートでの体験があなたの人生を変えたのですね?

 すべてを変えました。私の半生は2つに分類できます。“パレスチナ”の前と後です。夫が言うには、パレスチナ人と出会って、私の生活すべてが変わったのです。事実を観てしまった者はもはや無知のままで生きてはいけません。もはやその真実に目をつぶって生きてはいけません。私は真実に目を見開かされました。もはや元には戻れません。
 個人的な生活でも困難を伴います。私は英国で働いています。レバノンへ行くとき仕事を辞めました。戻るとまた仕事を始めるのですが、今度は第1次インティファーダのとき6ヵ月間ガザへ行き、負傷したパレスチナ人のために働きました。アルアハリ病院というクリスチャンの病院でした。1987〜9年頃には公立の病院ではなく、私立の病院でした。イスラエル軍政府から独立していました。だからそこで働きました。私にとって、キャリアとか成功や利潤の見込み、アカデミックな功績などもはや重要ではありません。ただパレスチナ人に謝罪し、彼らと共にいることがとても重要だったのです。

 私に「ドクター・スゥイ、あなたはパレスチナ人にだけ注目しているけど、世界の他の苦しんでいる人たちはどうなんですか。世界中に苦しんでいる人はいる。南アフリカとかニカラグアの人びとのことはどうなんですか。彼らのことは気にかけないのですか」と問う人がいます。もちろん気にかけ、いつも彼らを支援しています。パキスタンの地震のときも現地へ行き医療活動で支援しました。しかし私の心、魂はパレスチナ人と共にあります。パレスチナ人のために活動することは私にとって自分の魂と心からの行為なのです。レバノンでもガザ地区でもヨルダン川西岸でもです。

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