2010年9月18日(土)[3] ドクター・スゥイの語り(3)
(ドクター・スゥイの語り(2)の続き)
Q・ガザ攻撃直後にもガザへ医療支援に行かれたそうですが?
第1次インティファーダのとき、私はガザへ行きました。それは、住民の不服従の闘いでした。ストライキを行い、投石し、多くの住民が負傷し殺されました。私はそのガザで6ヵ月間医療活動を続けました。ガザ地区はイスラエル政府の許可がなくては入れません。だから私は国連の職員としてガザに入りました。国連の関連の仕事としてアルアハリ病院で働いたのです。私は国連のパスポートを持っていましたから、外出禁止令のときも移動できました。私はガザの地理はよく知っていましたから車でいたるところへ行き患者の診察をしました。
そして12年後の2009年1月に私はガザに戻りました。そこで何が起こったかお話ししましょう。
私は衝撃を受けました。大きな衝撃でした。もし以前のガザを知っていなければ、これほどの衝撃を受けなかったでしょう。私はラファから、ガザ北部へ車で移動したのですが、道の両側にある多くの建物が爆撃によって破壊されていました。だから道路は閑散としていました。家屋は消えていました。ハンユニスを通過すると、ものすごい数の建物が完全に破壊されていました。完全に抹殺されていたのです。1988年から89年のころ、果樹園が続いていたのですが、すべてが消えていました。完全に、です。ガザ全体で2万1000の建物が破壊されました。私が到着するまでに1350人が殺害されました。5000人が負傷し、半分が重傷でした。たくさんの学校が破壊されました。病院も、です。しかも再建も許されませんでした。
2006年からガザは封鎖の状況が続いています。イスラエル側の許可がなければ、食料も自由に持ち込めない。過密に人口が密集する場所が爆撃されました。ガザはとても狭い土地です。私が育ったシンガポールほどの大きさです。いやそれよりも狭いかもしれない。そこに150万人の住民が暮らしています。住民は密集して暮らしているのです。そこに白リン弾や劣化ウラン弾を落とすと、たくさんの人びとが殺されることは明らかです。それがその時のガザの様子でした。
私がロンドンでその話をすると、「嘘つき!」という非難を浴びます。しかし私が挙げた数字はまもなくWHOやゴールドストーン報告でも報告されました。だから私が挙げた数字に異論を唱える者はなくなりました。それは恐ろしい状況でした。
Q・これからの計画は?
昨夜のドキュメンタリー映画『ガザ病院』の上映会で、パレスチナ人の指導者についてどう思うかという質問を受けましたが、私にとって、それは重要なことではありません。私は英国に住んでいて、選ばれた首相は好きではないこともあります。しかもその首相はイラクとの戦争に踏み切った。だからと言って、英国の国民との話し合いを拒否するということにはなりません。私は1110万人のパレスチナ人について話をしているのです。こんなにも歴史の不正義に苦しんでいる人びとのことです。彼らは、我われすべてが支援することを必要としている人びとです。「自分はクリスチャンだから、現在のパレスチナのイスラム系の政治組織のリーダーに怒りを覚える」といった問題ではないのです。私はパレスチナ人の民衆を支持し続けます。彼らの“大義ある正義”を、です。私たちは友人です。彼ら民衆がどの政府が好ましいかを決めるのです。私が決断するのではありません。だから私のあらん限りの力を尽くして、私はパレスチナ人を支援します。ある日、私が老いて、記憶が消え失せるときがくるかもしれない。話をすることができなくなるかもしれない。でも、私はその時が来るまで、パレスチナ人のために発言を続けます。私が歳をとり過ぎて活動を続けることができず、現在の慈善活動ができなくなるときが来るかもしれない。しかしその時が実際来るまで、私はパレスチナ人を支援し続けるつもりです。正義を求める闘いが成功するかどうか、わかりません。もし失敗すれば、私たちが彼らと友人であり続けることはもっと重要になります。
若い人たちの中には、「パレスチナ人に励まされるから支援する」という者もいるでしょう。しかしパレスチナ人の状況が困難になれば支援したい思いは消えるのかというと、そうではないと思います。もし友人であるなら、そんな時だからこそ、パレスチナ人を支援し、その重荷を共に引き受けなければなりません。以前よりもさらに、彼らを支援しなければならないのです。私は老いて車椅子を使わなければならないときが来るかもしれない。また話ができなくなるときが来るかもしれない。そうなれば、私は退職者ホームへ行き、パレスチナ人のために静かに祈るでしょう。
私たちの中には偏見を持つ者もたくさんいます。彼らは友人だとか、敵だとか。私たちが正しいとか、間違っているとか。私たちはそのような偏見の中で育ちます。しかしそれは間違っています。なぜか話をしましょう。
パレスチナ人と出会うことで、他の国の人たちも私たちと同じ人間であり、尊敬すべき人たちであり、愛すべき人たちなのだと見られるようになりました。
私にとってパレスチナ問題に面と向かい合うことはとても重要なことです。パレスチナ人と出会うことによって、彼らが私やあなたと同じように人道に対する当然の要求をしていることに気付かされ、同じ家族だということに気付かされるのです。それが重要であり、あらゆるバリアを破壊することになるのです。言葉を変えれば、それは私の愛する力を伸ばし、神に仕える力を強めることになります。だから、パレスチナ人との出会いは、私にとって“神からの贈り物”なのです。
Q・どんなメッセージを他の人びとに送りたいですか?
私は『ベイルートからエルサレムへ』という本を書きました。もしこれを読んでくださったら、私自身について書いた本だということに気付かれることでしょう。6日戦争(第3次中東戦争)におけるイスラエルの勝利を祝う私、ドクター・スゥイと、パレスチナ人と出会ったドクター・スゥイの両方について書いています。6日戦争でイスラエルが勝利したとき、私はとても若かった。クリスチャンとして、私が所属する教会全体がイスラエルの大勝利を祝いました。そのときパレスチナ人の痛みも苦しみも見えていなかったのです。そのことをこの著書の中に書いています。つまり疑うこともなく教会のシオニズムの大義を信じ従っていた10代の私、そして現実に衝撃を受け、パレスチナ人を愛し、疑うことをせず信じていたイデオロギーを壊していく私を描いています。そして私は3つの重要なこと、「信仰と希望と愛のうち、愛が最も重要である」と説くコリント人への手紙に感動したのです。それ以前に抱いていた、流暢に語る能力のある者、たくさんの知識を持つ者への尊敬の念は消えてしまいました。ただ1つのものだけが残ったのです。それは“愛”です。その愛のために信仰があり、その信仰があるために希望があるのです。それは、私たちがどのような闘いをするときでも普遍的なメッセージです。それを覚えている限り、どんな困難な旅になろうともかまいません。
何度もレバノンに戻り、シャティーラ難民キャンプに戻ると、私はあのときの子どもたちを探しています。彼らはどこかに行ってしまいました。死んでしまったのでしょう。キャンプ戦争(1980年代半ばの難民キャンプのパレスチナ人とシーア派武装組織「アマル」との闘い)のときに殺されたに違いありません。しかしその記憶ははっきりと私の中に残り、それをあなたと分かち合うことができます。
状況はどんどん困難になっています。パレスチナ人がどれほど困難な状況にあるか、どれほど彼らが苦しんでいるかをこのベイルートで見ることができます。私たちには、住民たちのことを振り返るインスピレーションが必要です。パレスチナ人たちは私たちやあなたがたにメッセージを送っているのです。私たちに、彼らのことを振り返ってほしいというメッセージです。
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