Webコラム

日々の雑感 244:
第1次インティファーダとは何だったのか(後編)

 →第1次インティファーダとは何だったのか(前編)

2011年11月14日(月)

 第1次インティファーダについてA氏はさらに話を進めた。

異なる組織の連帯

 占領地にはすでに、労働者組織、女性組織、学生組織、医者や弁護士らの組織などあらゆる分野を代表する組織があった。彼らは互いに会い、協議し、お互いに考えを出し合い、互いに共同行動を取ることも少なくなかった。またそれぞれの指導者たちはお互いをよく知っていた。彼らの多くは共に投獄された体験をもっていた。出獄した後、お互い知りあう者たちもいた。人びとは簡単に会うこともでき、簡単にコーディネイトすることができた。とても解放された社会だった。占領地の表面は静かだが、地下水が脈々と流れていた。それは外から見ることはできなかったが、地下にその流れはあったのだ。その流れはとても強力だった。その地下水が噴き出たのだ。
 イスラエルはずっと自分たちは占領地を征服したと考えていた。全ては静かで、闘う者は誰もいない、イスラエルへ働きに出て、家に帰ってくることができる、イスラエルで働いて金を得て、子どもたちのために買い物をして、すべてはまったく問題ないと考えていた。その静けさが、人びとが自由に結びつくことを可能にした。まったく移動の制限はなかった。検問所もなく、お互いが会うことを妨げるものは何もなかった。それが人びとが結合することを物理的に可能性にした。西岸からイスラエルを通ってガザへ行くことは簡単だった。ラファの人間がジェニンの人間にその日のうちに会うことができた。移動制限がなかったからだ。またある程度の「繁栄」や「経済発展」があった。我われは静けさを感じ、自信を感じた。闘争までにはしばらく時間がかかった。目標に達するための闘いを始めるためにはしばらく時間が必要だった。多くの要素が重なって、人びとが団結し、個人の望みは組織の望みに昇華することができた。

統一指導部の指令

 その指令の大半は民衆から来たものだった。指導部は毎週会い、いっしょに考え、新たな指令を出した。実際に指令を書いたのは個人だが、それは個人の成果ではなかった。私自身、パンフレットを書くためにたくさんの話し合いに加わった。もし何人かの個人だけで相談し決めてしまったら、間違いを起こすかもしれない。だから全員に相談するのだ。それは民衆から押し上げられてきた要求だった。住民が「自分たちはこういう問題に直面している」といい、他の者が「それを解決するにはこうしたほうがいい」と言う。そこで生まれたアイデアは次のパンフレットに生かされる。だから人びとが受け取るパンフレットは、単に上からの命令ではなく、人びとの必要と提案によるものだった。この命令は自分たちのものだと認識でき、民衆は抵抗感もなくそれに従った。それは一方的に強制されるものではなく、自由なものだった。民衆の中から提案されたものだったからだ。

外のPLOの介入

 これがインティファーダが衰退する原因となった。誰もインティファーダを支配することはできない。個人が統一指導部に介入はできない。インティファーダに金が必要になってきたとき、誰が資金を与えたか。それは外のPLO指導層だった。「我われが資金を提供しよう」と提案したのだ。資金を提供するということはコントロールするということだ。これによって干渉が、つまり直接的な要求がなされることになる。どんな戦略、戦術を取るのかや、占領地の代表を選ぶことにさえ干渉するようになった。これがインティファーダの流れを変えてしまった。大衆から表現された力によってこれまでにないものに到達しようとするものから、他の違ったものに変わってしまった。外のPLOが“インティファーダを盗んだ”と言える。
 PLOは湾岸戦争で、イラクのフセイン大統領を支持するという大きな失策をした。この決定はPLOをまったく弱体化する決定的な決断だった。PLOは地に堕ちた。とりわけ財政的な困窮は深刻だった。クウェートに侵攻したフセインを支持することで、湾岸諸国の怒りを買い、それまでPLOの最大の資金源であった湾岸諸国からの援助を断ち切られた。資金なしでは組織運営もできない。占領地の組織に資金援助もできない。アラファトはそのとき、PLOが占領地で何もできなければ占領地の指導者たち、ファイサル・フセイニやハイデル・アブドゥルシャーフィが権力を奪い、自分は民衆の間で影響力を失うと恐れた。
 外のPLOは1990年から92年まで財政難に苦しんだ。その結果、ワシントン交渉ではファイサルやハイデルら占領地内の指導者たちに強硬姿勢をとるように命じる一方、ラビン(イスラエル首相)との間で妥協をしオスロ合意を実現させた。一方、占領地のパレスチナ人は、その頃、モスクで5回の祈りのとき、PLOのために祈った。そうしなければ、アラファトに私たちが彼に代わる指導層を求めていると疑われるからだ。アラファトは第1次インティファーダから自分に代わる指導層が成長する恐怖にとりつかれていた。彼はその可能性をあらゆる手段を使って潰そうとした。その後もそうだった。オスロ以後でもそうだった。新たにできたパレスチナ自治政府(PA)から、第1次インティファーダの指導者たちをほとんど排除した。外からやってきたPLOの幹部たちがPAの幹部を占めた。それはインティファーダを終結させるためだった。
 公にされてはいないが、当時のイスラエル首相ラビンがオスロ合意についてこう語っている。
 「我われはインティファーダを終わらせるために、外からPLOを入れた。それによって我われ自身が彼らを抑圧するのではなく──そうすれば最高裁判所や人権団体が非難する──パレスチナ人がそれをやってくれる。それは誰も非難しない。彼ら自身のやり方でやっているのだから。今後のパレスチナ人のどんな惨事にも我われは責任はない。パレスチナ人自身がそうするのだから、我われは占領を終了することなく、「終結」させることができ、我われ自身が力を加えることなく、また非難されることもなくインティファーダを壊滅することができる」
 これがラビン首相のインティファーダを終結させるためのビジョンだった。
 もちろん、それは外のPLO、つまりアラファトの野心と合致していた。つまりアラファトは歴史から葬られることもなく、指導者としての立場を再び獲得し、占領地に自治政府を持つという新たなプロジェクトを創り上げることができたからだ。

第1次インティファーダが生み出したもの

 それは民衆の一体感だ。1つの民だという意識だ。自分自身の運命に対して自分たちでなにかできるのだという意識だ。もし自分が解放されたければ、他の人ともそれを分かち合わなければならない。相手が貧しく、自分に金があるなら、自分はその人に貢献しなければならない。それは“連帯意識”“一体感”だ。この連帯によって、自分たちの目標に達成できるのだから。そんな一体感が当時、社会に広がっていった。土地に戻って、いっしょに土地を耕し、自立し、社会に貢献しなければならないと考えた。「誰も私たちを解放してくれない、自分たちで解放しなければならない」という意識が、日常の生活に具体化されていった。人びとは他の人びとのことを気遣った。他の人たちが必要としているものを感じ取った。つまり自己中心だった人びとが変わっていったのだ。それによって大きなことを成し遂げた。

オスロ合意

 オスロ合意が発表されたときに人びとは歓喜した。しかし人びとは、合意の詳細を知らなかった。遂に自分たちはパレスチナ国家の建設というゴールにたどり着いたと思った。そのようにしてイスラエルはパレスチナ人を騙したのだ。民衆は、イスラエルがPLOや我々の権利も、自分たちの国を作る大望も認めると考えた。たとえあと5年かかるとしてもだ。これまでのさまざまな苦難に比らべれば5年待つことなど何でもないことで、これこそが目標に達する道だと思った。我々はこれを自分たちの勝利だと思った。これは我々の苦しみとインティファーダの終結であり、イスラエルを打ち負かしたと考えた。パレスチナ人の合法的な権利が認められ、PLOが戻ってくる、自治政府ができる、これはすべて民衆の成果だ、それは喜び踊るに値することだ、それは占領との闘いから勝ち取った成果だと考えたのだ。
 1991年マドリッド和平会議とオスロ合意の間の2年間、民衆は失望していた。マドリッドから始まった和平プロセスは何も動かなかった。そんなときオスロ合意はちょうど電光のようにやってきた。「我々は勝利を手にしたのだ」と考えた。一方で、ワシントン交渉があった。しかし何の成果もなく、苦悩が続いた。2年間のプロセスで何も起きなかった。代表団は行ったり来たりしながら、何の成果もあげられなかった。しかしオスロ合意が来たとき、「遂に我々は成果を手にした。インティファーダ時代の苦難が報われる」と考えた。

 アラファトは、自分の役割は第1次インティファーダを抑えることだと理解していた。しかし5年後に国家を持てるのなら、彼にとってその代価はなんでもないことだった。彼は歴史的な政治家だ。彼は闘争のための犠牲、負傷や殺害などまったく考慮していなかった。真の独立の達成のためなら、それは元が取れると考えた。その点に関しては、アラファトはとても「寛大」だった。パレスチナ人のゴールのためにそういうビジョンを持っていた。そのために小さなことはすべて犠牲にした。彼は「5年後に国家ができれば、誰も自分がインティファーダを抑え込んだことを言及しなくなる。インティファーダなどパレスチナ人の自由に比較すればなんでもないことなのだ」と。
 アラファト自身も、オスロ合意のトリックを理解していなかった。自分はイスラエルを外からよりも内側から打ち倒せると考えていた。イスラエルは自分を2度とパレスチナの外に追放することはできない。自分は彼らの喉に引っかかったトゲとして留まり、5年後に国を持つことができると信じた。だから闘争は違ったかたちで続いていた。私たちはオスロ合意に幻想を持っていた。イスラエルもまたそうだった。イスラエルはこれが暴力の終結になると考えていた。たとえ西岸やガザで再び暴力が起こっても、我々が簡単にそれを破壊できると考えていた。しかしそうはなからかった。邪悪な意志が双方から働いた。パレスチナ側はイスラエルを内側から打ち倒せると思ったし、イスラエル側はパレスチナを打ち負かし、大した代価を払うこともなく占領を続けられると考えた。そして邪悪な意志が残った。パレスチナ人は自爆攻撃など暴力に戻り、イスラエルは占領を続け、入植地建設を続け、パレスチナ全体を支配し、パレスチナ人の合法的な権利を与えることもなかった。オスロ合意が失敗したのは、双方とも2つの民が違った地域で違った集団として隣合って共存することを望まなかったからだ。イスラエルはそれを望まなかった。パレスチナ人を支配し続けようとした。イスラエルは「人のいない土地」が欲しかったのだ。「自治」? それは個人的な自治であり、土地の自治ではない。イスラエルもパレスチナ人もお互いに良い隣人で生きるということを望まなかった。

第一次インティファーダの指導たちのその後

 彼らは完全に表舞台から退却してしまった。一方、人びとの一体感、連帯意識も消えた。アラファトなど外から来た連中は、最悪のものをこの地に持ち込んできた。そして我々が持っていた最善のものを失った。今は、すべての人びとが自分のことだけを考えるようになった。「なぜ自分は他人のことを考える必要があるんだ。自分のことが最優先だ」と。協力の代わりに競争が、連帯の代わりに個人主義がはこびるようになった。個人主義だけではない。党派主義、部族主義、ファミリー主義がはこびり、だれもが自分の周りにロビーを作ろうとした。自分の利益や必要を満たすように。その結果が第2次インティファーダだった。それは突発的に起きたことではなく、悪い傾向、個人主義、最悪の人間性から生まれたものだった。

アラファト

 アラファト自身の生き残りの闘いは、「手段」であって、「ゴール」ではない。彼のゴールはパレスチナ国家の建設だった。「そのために自分は生き残らなければならない」と考えた。自分自身のために生き残ろうとしたのではなく、それは手段だった。彼は大きな目標のことを考え、他のことは単なる手段だった。だからアラファトのことを、自分のことだけを考え自分以外のことは考えない、利己主義の指導者だいうのは間違いだ。彼は大きな目標のことを考えていた。そのためにどんな犠牲を払っても構わないと考えていた。どれほど民衆が殺されても、どれほど民衆の失うものが大きくてもだ。最終的に目標に到達すればよかった。ある首脳会議でアラファトは「現在、290人の殉教者が出ている」と発言した。すると部下が「まだ120人です」と訂正した。すると彼は「すぐにその数になる」と答えた。それは民衆にどれだけの犠牲者が出ているかを知らないということを象徴的に表している。そんなことはどうでもいい、我々に必要なのは、最終的なゴールに到達することだ、という意味だ。彼は他のことはどうでもよかった。

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