2013年2月5日(火)
前回、沖縄を訪れたのは、東日本大震災から5日後の2011年3月16日だった。歴史的な大震災の直後に、ジャーナリストの私がなぜ、東北の現場ではなく、まったく反対の方向の沖縄へ向かったのか。
2011年4月20日付けのこのコラムに、私は「なぜ大震災以来、沈黙してしまったのか」と題してこういう文章を書いている。
今、私は福島県の三春町の旅館でこの日記を書いている。3月11日に起こった東日本大震災の被害とその後の状況を取材するため、4月18日に現地入りした。
大震災被害の取材のために私が初めて東北の取材に出たのは、2週間近く経った3月24日だった。ジャーナリストの自分がなぜ即座に現場へ向かわなかったのか。いや向かえなかったのか。あれから1ヵ月以上経った今、それがどれほど痛みを伴うものであっても、ジャーナリストとして、私はやはり報告し、記録に残さねばとならないと思い、この日記を書く決意をした。たとえ自分の恥をさらすことであっても、それが生身の自分なのだから。大地震が起こった時間の4時間後、私は長い時間をかけて準備してきた緊急シンポジウム「エジプトの政変でパレスチナはどう変わるのか」を開演するはずだった。地震がおさまってしばらく、私は東京の会場に向かうため、タクシーで横浜駅に向かった。しかし駅前の広場は群衆で埋まっていた。全ての電車が止まってしまったのだ。私はシンポジウムの延期せざるをえなくなった。テレビは大震災とその直後の大津波の被害の実態を伝え始めていた。今まで目にしたこともないその甚大な被害のリアル映像に圧倒された。しかし私の中に、「すぐに現場に行かなければ」という、ジャーナリストとして当然、湧き起ってくるはずの衝動が、そのときの私には不思議なほど起こってこなかった。そのことは、「自分がジャーナリストであること」の意味を根本から問い直すべき重大な問題として今なお私の中に重くのしかかっている。とにかく当時の私は、長い時間をかけて準備してきたシンポジウムを直前になって延期せざるをえなくなった精神的な衝撃と、その事後処理に頭がいっぱいで、「歴史的な大事件を追う」という発想も気力もなかった、というのが実情だった。
その夜、JVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)のMLには、すぐに「福島原発」の取材に出る話が出始めていた。しかし私には、「自分も」という衝動はなかった。今まで一度も取材したこともない「地震」「津波」「原発」という事件を追うことの意味を、私は自分の中に見出せないでいた。自分が現地へ行って何を、どう取材すべきなのかが当時の私にはまったく見えなかったし、自分がすぐに現地で取材しなければという突き上げる衝動がなかったのだ。私はただただ、テレビで報じられる甚大な被害に圧倒され、その映像に見入っていた。
広河隆一氏やJVJAのメンバーたちは翌日から現場へ向かい、その日々の取材活動はツイッターでも伝えられた。彼らのジャーナリストとして当然の行動、その迅速さが私にはまぶしかった。その一方で、情報の受け手、視聴者としてテレビや新聞の報道に圧倒され、「金縛り」にあったように動けないジャーナリストの自分が後ろめたく、情けなかった。
私は2日間、テレビの前を離れられなかった。そして自分の中に、「何を、どう取材すべきが見えなくても、とにかく現場に立たなければ」という思いが大きくなった。しかし動こうにも、私には手立てがなかった。東北の公共の交通機関はマヒしている状況の中では車で向かうしかないのだが、私はぺーパー・ドライバーで運転できない。運転できる他のジャーナリストを探そうとするが、多くの知人のジャーナリストたちはすでに現地へ向かっていた。私は現地へ向かう“足”がなく、見動きできなかった。私は大地震の前から、3月16日から1週間、沖縄取材を計画していた。1950年代、伊江島で米軍による基地拡張ための農地接収と闘った阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)氏ら農民の闘いを取材するためである。農民が生活の基盤である故郷の土地を、外からの強者によって理不尽に奪われる──それは、まさに“パレスチナ”だった。阿波根氏が自ら撮影した、その闘いを記録した写真集を目にしたとき、私は初めて沖縄とパレスチナの接点を見出した気がした。幸い、私の思いとその計画に賛同してくれた沖縄の牧師・金井創氏が車で私を案内してくれることになっていた。この期を逃すと伊江島の取材は難しくなるかもしれない。「歴史的な大事件の現場に一日も早く行かなければ」という思いと、伊江島取材は今しかないという思いの間で迷い悩んだ。しかし実際、東北へ向かう手立てがすぐにみつからない今、テレビの前で悶々としているわけにもいかない。結局、私は沖縄へ向かった。
その途上も、自分が今、大惨事が起こっている東北ではなく、沖縄へ向かっていることに迷いと後ろめたさ、葛藤に悩み続けていた。沖縄に到着した翌日、私は沖縄の知人にこんなメールを送っている。
「こんな時になぜ東北ではなく沖縄なのか。悩み迷いました。今もそうです。パレスチナと沖縄と、今の東北を結びつけるものを模索しているのです。そしてぼんやりと見えてきました。それは人にとって土地とは何かということです。一瞬にして生きる基盤を奪われた人の痛みを伝えること、それが私が今やらなければならないことです。そのなかで何からやるのがいいのか、何からやるべきなのか、その判断に悩み苦しんでいます」私はこんな時期に沖縄へ向かう“意味づけ”と同様に、東北へ向かうための“意味づけ”を見出だそうとし、それを“パレスチナ”とのつながりの中に見出そうとしていた。そうでなければ、長年、自分のライフワークとして“パレスチナ”を追い続けてきた私が、東北に向かう、自分自身が納得できる“必然性”を見いだせなかったのだ。「すでにこれほど多くの組織ジャーナリストやフリージャーナリストたちが現地で取材し報道しているなかで、私が改めて現地で取材する意味や価値があるのか」という自問に答ええるだけの“意味づけ”の輪郭が私の中にやっと見えてきた。
「農地を守る伊江島の闘い」の足跡と関係者の取材を終える頃、最初の東北取材を終え帰京したJVJAの写真家、森住卓氏が車で再び現地に向かうという情報を得た。私は彼に沖縄から電話し、同行させてほしいと依頼した。彼は同意し、沖縄から帰った翌々日、私は森住氏の車に同乗して岩手県の陸前高田市に向かった。
この日記を読み返すと、2年の時が過ぎて瘡蓋(かさぶた)の下ですでに癒えていとる思っていた、当時の深い心の傷が再び疼きだす。その舞台の一つであった沖縄に戻ればならおさらだ。当時の出来事と思いが否が応でも脳裏によみがえり、その傷を再び直視せねばならなくなる。それはわかっていた。しかし私は、その葛藤の中から生み出したドキュメンタリー映画『飯舘村 第一章・故郷を追われる村人たち』を沖縄でこそ上映しなければならないと思った。そうすることで、私のあの迷いと葛藤は決して無意味でも無駄でもなかったのだと自分を納得させることができると思ったからである。
今回の沖縄訪問の主な目的は、沖縄大学と沖縄キリスト教学院大学での映画上映・講演だった。前者では私のドキュメンタリー映画『ガザ攻撃』を上映し、“パレスチナ”と“オキナワ”の接点について語った。両者が内包する共通の普遍性をより具体的に理解してもらうために、私は2つのドキュメンタリーについて言及した。『標的の村』(琉球朝日放送制作)と『壊された5つのカメラ』(パレスチナ人・イスラエル人両監督による映画)の持つ共通的について語った〔「日々の雑感」(2011年12月5日)/パレスチナ現地報告12・「沖縄・高江とパレスチナ」を参照〕。巨大な国家権力によって弱い住民が生活基盤と、人としての尊厳を持って人間らしく生きる権利、そして“正義”が理不尽に踏みにじられ、奪われていく“不条理な構造”──両者は場所も状況も歴史的な背景もまったく違うのだが、起こっている現象の“根っこ”が驚くほど似通っているのである。
また後者では、映画『飯舘村 第一章』を上映し、“パレスチナ”と“フクシマ”、そして“オキナワ”との関係性について話をした。
これらの講演の中で、 “パレスチナ”・“オキナワ”から“フクシマ・飯舘村”に辿り着いた経緯を私はこう説明した。
「“パレスチナ”と“オキナワ”は『生まれ育った家や土地・故郷を奪われる』という共通の接点があります。ならば、大津波によって一瞬にして家も故郷も奪われた東北の被災者たちも同じではないか──そのときやっと私の中に、“パレスチナ”を追ってきた自分が東北へ行く“意味づけ”ができたのです。『自分は東北へ行ってもいいのだ』と思いました。
私は津波によって壊滅状態となった陸前高田や大槌町を訪ね、家も町も失った被災者の声も聞きました。しかし、それは“パレスチナ”とは微妙に違うことに気付いたのです。津波の被害は“天災”です。“天災”は避けようもなく、しかも被災地の住民が一様に受ける被害です。不遜な言い方かも知れませんが、どこかで『自然災害だから仕方がなかったのだ』と自分を納得させることができるかもしれません。
しかし“パレスチナ”は“天災”ではありません。イスラエル建国という人為的な事件によって、パレスチナのアラブ人住民が強制的に家と土地、故郷を追われたのです。では東北で、“人災”で家と土地、故郷を追われたのはどこか? それが“フクシマ”つまり原発事故の被害でした。これは地震や津波の被害というより、原発の存在そのもの、さらに自然災害への対応の人為的なミスなどによるもの、つまり“人災”です。
原発事故の被害ならば、なぜ原発に隣接し最も被害が重大だった双葉町や大熊町ではないのか。それら原発近隣の町や村の住民たちは、政府の避難勧告に従い、事故直後に家と故郷を離れ避難しました。もしその住民と被害の実態を取材しようと思えば、避難所へ行って話を聞くことはできます。しかし“伝え手”として、家や土地、故郷を失い人たちの“痛み”を他の日本人に伝え実感させるには、故郷で生きている住民の“生活”と、まさにこれから故郷を追われようとする人びとの“思い”が見えていないと難しいのです。それをきちんと記録し伝えようとすれば、まだ避難前で住民の“生活”が存在し、これから避難を余儀なくされ、その過程が見えていることが重要な要素となります。それが、事故から1ヵ月後にやっと『計画的避難区域』の指定され、その後も実際の避難まで1ヵ月以上もかかった飯舘村だったのです」
これまでも首都圏を中心に何度か映画『飯舘村 第一章・故郷を追われる村人たち』を上映してきた。しかし沖縄の会場の反応は、これまでとは違っていた。私が解説するまでもなく、集まった参加者たちは、理不尽に故郷を追われる飯舘村の人びとの姿に“オキナワ”の自分たちの現状を重ね合わせていたからだろう。
参加者の一人が言った。「これまで“フクシマ”は私たちとは関係の薄い、遠い問題だと思っていました。しかしこの映画で“フクシマ”がぐんと近くなりました。私たちの問題なんだと」。
“パレスチナ”と“オキナワ”そして“フクシマ”を結びつける講演と映像上映が、沖縄で実現できたことに、私は3年前に同じ沖縄で背負った“宿題”のほんの一端をなし終えたような気がした。
参考サイト:映画『飯舘村 第一章・故郷を追われる村人たち』
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