2015年5月25日(月)
私が映画『“記憶”と生きる』の制作を決意するもう1つのきっかけがあった。2012年6月、中国に残された朝鮮人「日本軍慰安婦」を撮った韓国人写真家・安世鴻(アン・セホン)氏の写真展が、主催の新宿ニコンサロン側から突然、中止を告げられた事件である。納得できない安世鴻氏は東京地裁に開催を求める仮処分申請を申請し、なんとか写真展は実現できた。しかし彼はニコン側の中止理由を明らかにし、表現の自由の侵害を問うために東京地裁に提訴した。その裁判は3年を経た今も続いている。
安世鴻氏は中国に残された朝鮮人「日本軍慰安婦」を撮る思いをこう表現している。
2001年、当時より中国から帰国できないまま、そこで暮らすハルモニたちに出会い、彼女たちの内面を深く知るひとつのきっかけができた。ハルモニ一人ひとりを訪ね、汽車で、バスで、船で、土を踏みしめ歩いた道のりは、彼女たちが生きてきた過去の一部を手さぐりで見るようだった。国も無く彷徨うハルモニたちの悲惨な実情は、苦しい過去の延長のようであった。このような彼女たちの現実が、5回に渡り私を中国の地へ向けたのだった。
ハルモニたちと過ごした時間の中で、生きている瞬間を写真に捉えるということは、極度の緊張を要した。一緒に泣いたり笑ったりしながら過ごす中で、彼女たちは私の心#の 深いところに位置するようになったが、カメラのファインダーを眺める瞬間、自由に被写体との境界を往来するのは容易なことではなかった。人間的な側面と、「日本軍慰安婦」被害者としての一面というぎりぎりの境界を注意深く把握し、歴史の真実を写真に留めようと思った。
このような想いで撮った写真であるがゆえに、安世鴻氏は、あのハルモニたちの存在と現状をどうしても伝えたかったのだろう。「何があっても伝えなくてはならない。それがあのハルモニたちに託された写真家としての責務だ」という安世鴻氏の決意が、この間の一部の右翼勢力による妨害行為、脅迫、ニコン側の写真展中止宣言というさまざまな障害にもひるませずに毅然と立ち向かわせ、写真展の開催に漕ぎつけさせ、その後長く困難な裁判闘争を続けさせているのだ。日本語も不自由な韓国人の彼が、慣れない異国の日本で、日本人だって押し潰されしまいそうな障害に立ち向かい、乗り越えてやっと実現した写真展。この間の安世鴻氏の不安と恐怖、葛藤は私たちが想像もできないほど大きかったにちがいない。
本来なら、“加害者”であった日本人がやるべき仕事である。それを被害国の韓国人の写真家に押し付けてしまっている。私は日本人ジャーナリストの1人として後ろめたかった。恥ずかしかった。安世鴻氏に比べれば、日本人の私は国内ではるかに安全で有利な立場にある。そんな私は安世鴻氏とその写真に「あなたは、かつて元日本軍『慰安婦』のハルモニたちと関わったジャーナリストとして、今後どうこの問題と向き合い、行動していくつもりなのですか?」と問いつめられているような気がしたのである。
「ナヌムの家のハルモニたち」の映画制作には先駆者がいる。韓国人女性監督、ビョン・ヨンジュ氏は私とほぼ同時期にナヌムの家のハルモニたちを取材・撮影し、1995年にドキュメンタリー映画を完成させた。その映画『ナヌムの家』(原題『低い声』)は、韓国のみならず日本でも大きな反響を呼んだ。第4回(1995年)山形国際ドキュメンタリー映画祭に招待され、前途有望なアジアの新人監督に与えられる小川紳介賞を受賞している。また他にも海外で高い評価を受け、多くの映画賞を獲得した。
そのビョン氏が元日本軍「慰安婦」のドキュメンタリー映画の制作を思い立ったきっかけは、1991年8月、元「慰安婦」、金学順さんが初めて実名で証言するテレビニュースだった。
ビョン氏はその時の衝撃を1995年、私にこう語った。
その証言を観ながら、私は自分のなかに罪の意識を感じました。そのハルモニはまるで私自身に何かを語りかけているかのようでした。小学校時代から「艇身隊」という言葉は聞いてきたのですが、それはあくまでも性的な問題なのだと傍観者として聞いていました。しかし凄まじい暴力を受けたハルモニ側から初めてこの問題を見始めたとき、自分が加害者になったような恥ずかしい思いに駆られたのです。
ビョン監督が映画制作に取り組みながら実感したのは、「同じ女性である自分には他人事ではない」ということだった。「もしあの当時、同じような状況にいたら、自分自身も当事者となっていたかもしれない」と思うからだ。
私はこの世の中には第三者の視線はありえないと思います。あるのは加害者の視線と、被害者の視線の二つだけです。第三者の視線はありえないのです。私はハルモニたちの映画を通して観客の視線を第三者の視線から被害者の視線に変えたいのです。
ビョン監督の「被害者の視線」は元「慰安婦」のハルモニたちの交流と撮影のなかでいっそう研ぎ澄まされていく。それは彼女の加害者への激しい怒りとなっていった。映画『ナヌムの家』に登場する、中国にとり残された韓国人の元「慰安婦」たちを撮影するなかで、自分の中に湧き起こってきた感情をビョン監督が私にこう吐露したことがある。
現地でハルモニたちと20日ほど共に生活し撮影していたときです。私はときどき殺意を抱きました。誰かを殺したいという感情です。その対象が具体的に誰なのかはっきりわかっていたわけではありません。ただ、どうしてこういう状況が作れたのか、現在も続いている、こんな過酷な歴史の痕跡、これほどまでの苦痛を一人の人間にどうして与えることができるのかという思いでした。そういう歴史を作った者たちを殺してしまいたいという殺意でした。現実には殺すことはできないけど、それほどの強い映画を作りたいというのが私の夢です。
しかしその一方で、自分のそんな思いをぶつけるようにして制作する映画が、果たしてほんとうにハルモニたち自身にとって有益なことなのか、とビョン監督は自問する。
いちばん私の心が痛めたのは、私が撮影を終えて帰国し、果たしてハルモニたちにどういう助けになるかということです。私の映画制作のために60年前の疼く傷を蘇られてしまいました。平和に暮らしている彼女たちの前に私がひょっこり現れて、過去の話をさせ、心の中をかき乱し精神的な混乱を与えてしまったのです。ドキュメンタリーというものは時には非情なものです。映画で果たしてあのハルモニたちの状況を変えるためにどういう影響を与えることができるか、一方的に私だけが救われて終わってしまうのではないかという罪の意識を感じてしまうのです。
同じ時期に同じ現場で撮影した私の映画『“記憶”と生きる』は、このビョン監督の『ナヌムの家』とどうしても比較されることになるだろう。
2つの映画には決定的な違いがある。それは、『ナヌムの家』が被害国の、しかも当事者たちと同性の制作者の作品であるのに対し、私の『“記憶”と生きる』は加害国の、しかも異性によって制作された映画であることだ。その違いは映画の中で何を伝えようとするのかという視点の違いとなって現れてくる。ビョン監督は意図してのことだろうが、ハルモニたちの辛い過去の“記憶”にあえて深く踏み込まなかった。おそらくビョン監督には同胞の、しかも同じ女性の辛い過去の体験記憶を強引に聞き出すことがあまりに“痛く”、どうしてもできなかったのだと私は想像する。一方、私は敢えてその“記憶”を引き出し映像化した。加害国のジャーナリストである私は、たとえ残酷なことであっても、その“記憶”をきちんと記録し、加害国である自国民に伝えなければならないと思ったからだ。そうしなければ、すでに国際的に高い評価を受けたドキュメンタリー映画を後追いして、日本人ジャーナリストの私が20年後に同じテーマの映画を世に問う意味はないのである。
(注・ビョン監督と映画『ナヌムの家』の制作については、拙著『“記憶”と生きる─元「慰安婦」姜徳景の生涯』(大月書店)・第10章「伝達と表現」の中に詳しく書いた)
(姜徳景「奪われた純潔」)
この『ナヌムの家』が日本で公開されたとき、劇場で妨害行為を受けた。安世鴻氏の写真展への妨害は前述した通りである。
このように日本の“加害歴史”を扱う写真や映画が日本で公開しにくい状況や空気はなぜ生まれてくるのか。
自国の加害歴史との向き合い方で、日本としばしば比較されるのがドイツである。
ドイツの首都ベルリンには「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」がある。そこには膨大な数の身の丈を超える追悼石碑が並び、ここを年間50万人が訪ねるという。大半は国内のドイツ人だろう。またベルリン市内の一角、ユダヤ人地区の家々の前の路面には、「躓(つまづ)きの石」のプレートが埋め込まれている。そこにはかつて強制収用所に送られたその家族の全員の名前が当時の年齢と共に刻まれている。さらに「緑の森」と呼ばれる市内の駅には、17番ホームがもう使われないまま残されていて、そのホームの鉄板には「1943年3月1日 1736人」「3月2日 1758人」「3月3日 1732人(のユダヤ人)がここからアウシュビッツに送られた」といった文字が刻まれている。ドイツが自国の加害の歴史を残し伝えている一例である。
一方、日本には広島や長崎の平和記念碑、さらに米軍の大空襲による被害者を悼む記念碑は各地に数多くあるが、自国の加害の歴史を刻んだ記念碑を私は見たことがない。そればかりか、日本軍「慰安婦」問題や「南京虐殺事件」に象徴される日本の加害歴史について活字や映像で表現すれば、「自虐史観」、「裏切り者」、「非国民」と非難・攻撃され、マスメディアもこの問題に触れることをタブー視する。義務教育の教科書からもその記述はほとんど消えた。
自国の加害歴史と向きあう姿勢がドイツと日本とではなぜこうも違うのか。
私は、“加害責任”の所在、主体を明らかにせず曖昧にしてしまう日本人とその社会の“体質”が根底にあるような気がする。アジアの民衆を加えると数千万人の犠牲を出した前回の日本による戦争の責任の所在もあいまいにされたままだ。なぜなのか。
社会学者・小熊英二の著書『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)の中に登場する、撃沈された戦艦「武蔵」の乗組員だった元海軍少年兵、渡辺清氏の日記の中に、私は現在の「個人の責任を問わない日本社会」の体質の一因を見る思いがした。それは渡辺氏の次の言葉である。
それにしても情けないのは、あれだけの破滅的な大戦争をしていながら、「それを仕組んだ責任者は自分だ」といって名乗り出る者がいまもって一人もいないということだ。……とにかく偉い人ほど他人にむかって道義の大事を説くが、それがいざ自分のことになると、その不感症ぶりは、まさに白痴にひとしい。まったくひどい話だ。
だがおそろしいのは、これが国民に与える心理的な影響だろう。わけても天皇のあり方は、「天皇さえ責任者として責任をとらずにすまされるのだから、われわれは何をやっても責任なんてとる必要はない」というようなおそるべき道義のすたれをもたらすのではないか。つまり国ぐるみで、「天皇に右へならえ」ということになってしまうのではないか。おれはそんな予感がしてならない。
戦争末期、約4000人の若い兵士たちを死に追いやった「特攻隊」も、それを企画し命令した軍の上層部は戦後も処罰されることなく生き延びた。中国東北部で生体実験など多くの中国の民間人を人体実験で殺害した731部隊の責任者・石井四郎は、戦後その「実験結果」を米軍に売り渡すことでその罪を逃れた。
責任者個人がその責任を逃れ、その責任の所在を組織や国民全体に帰してぼかし(たとえば敗戦直後、為政者の責任隠蔽のために定着した「一億総懺悔」のように)、ついにはその責任そのものも、なかったことにしてしまう傾向は、とりわけ戦中・戦後、もはや日本社会の“体質”とさえなっているのではないかと思ってしまうのだ。
他方、ドイツでは戦後、ナチスに関わった人物や組織は否定され、処罰されるか消滅させられていく。国旗も変わり、ナチスとその過去の歴史を賞賛する者や組織はドイツ社会から疎んじられ糾弾されると聞く。一方、日本では戦前の体制とそれを担ってきた人間たちが戦後も権勢を振るい、元A級戦犯が戦後、首相にまでなる。
責任の所在と主体を曖昧にする日本の“体質”を改めて認識させられたのが、福島原発事故である。“組織の責任”の隠れ蓑に守られて、その張本人である個々人の罪が暴かれず、追及されないこの構図と体質は、今も何一つ変わっていなかったのである。
2015年の現時点でも、十数万人の福島県民が、故郷を追われ、家も土地も資産も生業をも失い、家族をバラバラにされ、将来への不安、家族の健康への不安、経済的な不安の日々を送っている。この事故による関連死の数は、事故から3年半で1100人を超えた(「東京新聞」2014年9月11日版)。
しかしその責任が追及されるとき、「国の責任」「東電の責任」というふうに、組織の責任について言及されるが、その責任を負う国や東電の責任者であった具体的な個々人は、誰も追及されず、処罰もされてはいない。彼らは「国の責任」「東電の責任」「専門家組織の責任」という言葉に守られて、個人としての責任を免れて、まったく処罰を受けることなく、今なお、「政治家」や「官僚」として、また「天下り先の企業」の幹部として、平穏な生活を送っている。彼らが引き起こした原発事故のために、十数万人の福島県民が、4年たった今なお苦しみ悶え続けているのに、である。
(金順徳「あの時、あの場所で」)
自国の加害歴史と向き合いにくくしている、1つの要因と私が考えるのは、“被害者意識”の強調である。
私自身、被害者意識が加害の歴史や現実を見えなくする実例を、長く取材を続けてきたイスラエル・パレスチナの現場で目の当たりにしたことがある。
占領地で起こっているイスラエルによるパレスチナ人住民の抑圧の現状について、イスラエル市民に私はこう尋ねたことがある。
「あなたたちユダヤ人はナチスのホロコーストの迫害を受けたのに、なぜパレスチナ人をあのような抑圧をすることができるのか」
すると、そのイスラエル人は私に言った。
「あなたはホロコーストの恐ろしさを本当にわかっているのか。なぜパレスチナでの占領とホロコーストの苦難を同列に扱うのか。それらは全然、次元の違う話だ」
彼によれば、「ユダヤ人が二度とホロコーストのような目に合わないために、イスラエルを建国した。そのイスラエルが22カ国のアラブ諸国に囲まれたなかで脅威の中で生き残るために、少々の暴力や犠牲、占領は止むを得ないのだ」というのである。
欧米のメディアでも、パレスチナでのイスラエルのよる占領の実態が伝えられることは珍しくない。一方で、その報道を打ち消すかのように、ホロコーストの歴史が繰り返し流され、それを当時、看過してしまった欧米人の後ろめたさ、罪悪感を呼び起こす。それは私には、過去の“被害”によって現在の“加害”を覆い隠そうとしているようにも私には見えてしまうのである。
私は日本人の“被害者意識”と“加害者意識”の問題を考えるとき、それに似た思いを抱くことがある。戦後日本の「平和」観は、ヒロシマ・ナガサキ、東京大空襲などに象徴されるような“被害”と“被害者意識”に基づいているといわれる。たしかに平和運動の象徴的なスローガンとして「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」は盛んに叫ばれる。しかし一方で平和を求めるスローガンに「ノーモア・南京」という声を私は聞いたことがない。ある政治学者は、一般国民には「戦争責任は『一部の軍部』にあり、それによって苦難を強いられた自分たちは『被害者』だ。だから戦争責任などない」という意識があると指摘する。つまり被害者意識を持つことで、かつて「一部の軍部」に導かれたとしても、むしろ侵略戦争への道を突き進む“社会の空気”作りに積極的に加担した自分たちの責任、アジアで兵士として自ら加害を犯した責任に目を背けてしまうのである。
さらに言えば、戦後、日本人が平和・核廃絶運動のシンボルとして「ヒロシマ・ナガサキ」という被害体験を強調することによって、無意識にではあっても、結果的には、日本の加害歴史を見えなくしてしまった一面があるのではないだろうか。あのイスラエル人がホロコーストを強調することよって、パレスチナ人への抑圧を“免罪”してしまうように。
そのような「ヒロシマ」のあり方に警鐘を鳴らしたのが、広島の詩人・栗原貞子である。栗原はその代表作の1つ『ヒロシマというとき』でこう書いている。
〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば血と炎のこだまが 返って来るのだ
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
日本と同様、過去に侵略戦争の歴史を持つ敗戦国であるドイツは、“被害”と“加害”の問題とどう向き合ってきたのか。
ドイツのヴェルナー・ベルグマン(反ユダヤ主義研究所教授)はこう説明している。
被害のことを言う人たちの主張をよく聞いてみると、自分たちの被害のことを言うときに、必ず加害のことも言っています。そのうえで、自分たちの被害を語り、戦争で死んだ兵士の追悼もやるべきだという声が出ているのです。
また「被害があることで、加害は相殺されるのか」という問題について「加害と被害とは比べることができないと思います」と教授は答える。
現在ドイツで起こっていることを理解するために、2本の線路があると考えてみましょう。1本は加害責任の線路、もう1本は被害者問題の線路です。(被害の声が高まると同時に)加害責任も、非常に広くなってきています」(『「過去の克服」と愛国心』(朝日新聞社・2007年)。
ドイツの加害歴史との向き合い方を象徴するのが、ドイツ敗戦40周年に当たる1985年5月8日に行ったヴァイツゼッカー大統領(当時)の演説である。「荒れ野の40年」と題されたその演説は歴史に残る名演説として今なお語り継がれている。
その中でヴァイツゼッカーは自国の加害歴史についてこう語っている。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題のなかから、平和への能力、そして内外との心からの和解への覚悟が育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
(永井清彦訳『荒れ野の40年』(岩波ブックレット・1986年)
(金順徳「咲かない花」)
このヴァイツゼッカーの言葉は、同じく侵略戦争の加害歴史を持つ私たち日本人に自らの姿を顧みることを促している。
私たち全員が自国の過去を引き受け、責任を負わされていること。たとえ過去に直接関わっていない若い世代も(その後の)歴史のなかで、過去の出来事から生じることに責任があること。「(その自国の)過去に目を閉ざす者は、結局は現在にも盲目にな」ってしまうこと。それは私たちに日本人にも向けられた警告の言葉でもある。
現在の日本では、自国の加害歴史つまり“負の歴史”を否定し記憶と記録から消し去って、「輝かしい過去」だけを拾い集めた「歴史」を教育現場で教え広め、「祖国を誇れ」「愛国心を持て」と強要する傾向が日々強まっている。しかし、親が子を愛するとき、「いい部分」だけではなく「悪い部分」をも丸ごと引き受け愛するように、真の“愛国心”には自国の“輝かしい歴史”だけでなく“負の歴史”をも引き受け、背負う責任を持つ覚悟が必要なはずだ。その覚悟がなければ、安易に「愛国心」を叫ぶべきではないと私は思う。
今私たち日本人は“他者の痛み”に対する“想像力”を持ち、ヴァイツゼッカーが言うように「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしない」ことによって「人間としての力が試されてい」るのである。
映画『“記憶”と生きる』の公開は私にとって、そのような日本の“加害歴史”を語りにくい現在の空気と流れに対する、私なりの抵抗でもある。1996年の映画『ナヌムの家』や2007年の映画『靖国 YASUKUNI』の例にみられるように、日本の“負の歴史”を扱う映画に対して、それを否定する勢力から少なからぬ誹謗中傷や妨害・攻撃があることは十分予想される。しかしそれを恐れて公開を躊躇したら、私は自国の加害の歴史を封じる動きの加速化に、たとえ消極的にであっても、結果的に加担してしまうことになる。
私にとって、この映画の公開は日本人ジャーナリストとしての“矜持”を守るためのたたかいでもある。
【出版のお知らせ】
「“記憶”と生きる」 元「慰安婦」姜徳景の生涯
(大月書店)
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