Webコラム

日々の雑感 355:
「DMZ(韓国非武装地帯)国際ドキュメンタリー映画祭」(2)

  1. 『ごろつきすずめ』"Hooligan Sparrow"
  2. 『原子力マフィア』"The Nuclear Mafia"

2016年10月4日(火)

『ごろつきすずめ』
Hooligan Sparrow


写真: 映画『Hooligan Sparrow』より

 「アジア賞部門」の『ごろつきすずめ("Hooligan Sparrow")』は、若い女性ドキュメンタリストが命がけで中国社会の腐敗を暴いた作品である。
 中国のある地方都市で、小学校の校長が6人近い高学年の女子生徒をホテルに呼び出し、自ら強姦し、また“賄賂”として地方役人に強姦させる事件が起こった。その腐敗と不正義に怒ったある女性グループが、その事件を路上で訴える抗議運動を始めた。
 しかしその事件を隠蔽しようとする当局は、犯人の校長たちを罰するのではなく、逆にその抗議活動をする女性グループを脅迫し沈黙させようとする。その女性メンバーの1人はかつて売春を生業としていた女性だった。ただでさえ社会差別を受け続けてきたその女性と娘は、住処のアパートを次々と追い出させ、当局から金をもらって動く街のごろつきたちに脅迫される。そんな彼女たちの闘いに共鳴した若い女性監督ウォン・ナンフは女性たちに密着しカメラで執拗に記録し続ける。
 だが、それよって監督自身が、当局に雇われた暴漢たちの標的になった。路上で撮影している最中、どこからとなく集まってきた男たちに囲まれる。男たちに罵られ脅迫の暴言を浴びられ、ついにはカメラを奪い取られようとするが、ウォン監督はカメラと撮影したデータを守るため必死に抵抗し暴漢たちともみ合う。しかし彼女はその間もカメラのスイッチを切らない。そして、その暴行の実態はカメラの映像と音声として記録されることになる。
 その後も当局は、逃亡したウォン監督とその記録データを探し回る。実家の両親の元にも警察がやってきて「娘はどこだ?」と尋問する。一方、指名手配されたウォン監督は友人たちの元を転々とし逃亡を続ける。そして遂に、記録データをアメリカに持ち出すことに成功した。このドキュメンタリー映画はそんな波乱の過程を経てやっと完成され、世に出たのである。
 “記録する”とはどういうことなのか。何のために、誰のために記録するのか──ドキュメンタリストたちにとって最も根源的なテーマを、この映画は私たちに問いかけている。

 ちなみに、校長によるこの小学生強姦事件は、その後、犠牲になった少女の親たち、女性グループたちの必死の闘いによって大きな社会問題に発展し、やっと中国のマスメディアも取り上げ、この事件の真相を伝えるようになる。その結果、校長とその関係者たちは司法の手で裁かれることになった。ウォン監督の映像がそれに大きく寄与したことは間違いない。

予告編

『原子力マフィア』
The Nuclear Mafia


写真: 映画『The Nuclear Mafia』より

 韓国の作品『原子力マフィア("The Nuclear Mafia")』は映画の質を期待してというより、そのテーマに関心を抱き劇場に入った。描かれているのは、「反原発運動」だが、「こんな運動の手法があるのか!」と、目を見開かせる思いがした。
 日本では「原子力ムラ」と呼ばれるが、「ムラ」より「マフィア」という言葉がより鋭く本質を突いていると私は思う。
 20基を超える原発を抱える韓国でも、フクシマ以後、その危険性がいっそう注目されるようになった。しかし日本と同様、原発によって潤う「原子力マフィア」たちが韓国の経済界、政界に強大な勢力・影響力をもち、原発に対する市民の不安や反対する声は圧殺されがちだ。
 その「原子力マフィア」に立ち向かおうと、若い芸術家、リベラル政治家、社会活動家、主婦、学生ら9人が「原子力マフィア・捜査チーム」を結成する。その活動をカメラで記録したのが、この映画である。
 チームがまず捜査のターゲットとして狙いを定めたのは、原発建設会社の最大手「現代」の総帥だった李明博(イ・ミョンバク)氏だ。李氏は大統領になってからも原発をさらに推進し、アラブ首長国連邦などアラブ諸国への原発売り込みに成功する。調査チームは、李氏が韓国の原子力産業にどういう役割をはたしているのか、彼自身は「原発は安全だ」と本当に考えているのかを直接聞き出し公にするために、李氏の大豪邸前に張り込み、突撃インタビューを試みる。しかし厳重な警備に阻まれ、計画は失敗してしまう。
 次のターゲットは他の「原子力マフィア」のボスたちだ。彼らが開催する「原発安全キャンペーン」の総会に、調査チームはカメラを持って乗り込む。原発推進する組織の幹部たちが勢ぞろいしたその総会が始まると、会場に散っていた調査チームのメンバーたちは、まるで予定されている発言者であるかのように平然とステージに上がり、壇上のマイクをハイジャックする。そして、原発推進派の重鎮たちが集う会場で、朗々と「原発の危険性」を訴えるのだ。突然の出来事に、どう対応していいかわからず呆然と立ち尽くす進行役の女性アナウンサー。「原発推進」のための総会で「反原発」の訴えが会場いっぱいに響き渡るなか、唖然とし狼狽する「原子力マフィア」のボスたち。実に痛快なシーンである。しかしこれは「ドラマ」ではない。現実に起こった「事件」のドキュメンタリーなのである。
 また調査チームは、「原発は安全」と主張する学者たちにメディアの記者を装ってインタビューし、映画の中で、その「御用学者」ぶりを明らかにしていく。
 この映画の斬新さは、日本の多くの反原発運動のように「東電」「政府」「経産省」など組織の責任追及に主力を置くやり方とは違い、組織を主導する個々人の責任を追及していくその手法だ。そしてそれは、遠くは「戦争責任」、数年前の「原発事故」、そして最近の「豊洲市場問題」などに象徴されるように、 “個人の責任”を曖昧(あいまい)にする日本の“体質”をこの映画の“鏡”に映し出し、観る日本人に突き付けている気がする。この映画は、先に紹介した映画 『22("Twenty Two")』 と同様、日本で上映されるべき映画だ。

予告編

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