2021年10月26日
日本在住のアメリカ人ドキュメンタリー作家が、牛久(茨木県)の東日本入国管理センター(入管センター)に収容されている難民申請中の外国人たちを記録した映画である。
その証言映像の多くはセンター内での面会時に隠しカメラで撮影されている。また一時的な「仮放免」で外に出ることができた収容者たちへのインタビューもある。入管施設に収容された彼ら外国人たちは、入管センターでの人権を奪われた過酷な生活と、自殺を考えるほど精神的に追い込まれていく心理状態を赤裸々に語る。
この映画で最も衝撃を受けたシーンがある。入管職員による収容者への集団暴行の現場映像である。10人ほど職員たちが1人の収容者を呼吸もできなくなるほど抑え込み、「痛い!」「空気が吸えない!」と叫び訴える収容者に罵言を浴びせ続ける。まさにリンチである。
これほど残酷な暴行が日本の国の施設の中で実際に起こっている――その現実を目の前に突き付けられ、私は唖然とした。入管センターの監視カメラで撮影され、門外不出であるはずの映像をトーマス・アッシュ監督はどのようにして手に入れたのか。いずれにしろこれまで日本人自身が知らなかった、または目を背けてきた現実を、ドキュメンタリー映画として公開し、私たち日本人に伝え知らせてくれた監督を心から讃えたい。
この映画から受けた衝撃は、先に紹介した『理大囲城』『リトル・パレスティナ』(日々の雑感 409:山形国際ドキュメンタリー映画祭2021・評5)の衝撃とは異質だった。この2作品から受けた衝撃はいくらか引いて受けとめられた。遠い海外での出来事で、日本人の私たちとは直接の接点のない事件だからだ。
しかしこの映画で突き付けられた現実は、私たち日本人の足元で起こったいる出来事である。それに私は本気で目を向けてこなかった。
しかもその現実が、日本人のドキュメンタリストによってではなく、外国人ドキュメンタリストによって突き付けられたのだ。そのことが私の衝撃をさらに増幅した。“打ちのめされた”のだ。
「こんな重大な足元の問題を、なぜ私たち日本人ドキュメンタリスト自身がきちん向き合い、映像化できなかったのか」という恥ずかしさと悔しさ。
トーマス・アッシュ監督は「監督のことば」にこう書いている。
「私はボランティアとして牛久の東日本入国センターを訪ね、収容されている人たちの話を聞いて強い衝撃を受けました。そして、その話を日本の市民や世界に伝えたいと考えるようになりました。私の動機は、映画を作ることではありませんでした。人権侵害の目撃者として、拘束されている人びとの証言を撮影することで証拠を残し、彼らの真実を記録しなければならないという義務を感じたのです」
この言葉に私はハッとした。ドキュメンタリストとしての私自身の姿勢を問われているような気がしたのだ。ドキュメンタリストの道を踏み出した当時、私の中にもアッシュ監督のように「人権侵害の目撃者として(虐げられている)人びとの証言を撮影することで証拠を残し、彼らの真実を記録しなければならないという義務を感じた」部分があったはずだ。しかしドキュメンタリー映画の制作を生業(なりわい)とするうちに、「この原点から少しずつズレて来てしまったのではないか」と自分を顧みさせられるのだ。
映画の中でのアッシュ監督の言動にも、自分の“ドキュメンタリストしての姿勢”を改めて問われた。彼は面会しインタビューする収容された外国人たちを、「取材対象者」としてではなく、「人権と尊厳を奪われた一人の人間」として向き合う。それは当初の目的が「映画を作ること」ではなく、「人権侵害の目撃者として、拘束されている人びとの証言を撮影することで証拠を残し、彼らの真実を記録」することだったからだろう。収容者たちもアッシュ監督に「兄弟、トーマス」と呼びかける。「この人なら、自分たちの現状を受け止めてくれる」と信頼し、本音をさらけ出すのだ。多くのドキュメンタリストたちのように相手を「取材対象」と観る姿勢なら、こうはいくまい。
アッシュ監督はこの映画『牛久』を山形国際ドキュメンタリー映画祭の「インターナショナル・コンペティション」部門に応募しているはずである。日本の入管が収容者人権を蹂躙している現実を「日本の市民や世界に伝えたい」と願っているのだから当然そうするだろう。
しかしこの作品はなぜ選考からもれ、「日本プログラム」という枠の中での上映になってしまったのだろうか。
映画のテーマの重要性、映画そのもののクオリティー(質)から見ても、「インターナショナル・コンペティション」部門の日本の代表作品として選ばれてもいいはず、いや選ばれるべき作品だったと私は思う。今回、実際に選ばれた「日本の代表作品」より、映画『牛久』がドキュメンタリー映画としての「テーマ」の重要性、緊急性、クオリティーからも劣っているとは私にはとても思えないからだ。
選考からもれた理由は、監督が外国人であるからだろうか。しかし2009年の「インターナショナル・コンペティション」部門でイギリス人監督の映画『ナオキ』が日本代表作品に選ばれた例を見れば、それは理由にはならない。
「隠しカメラによる撮影」が「フェア(公正)でない」という問題なのか。入管のこれほどの巨悪、「アンフェア(不公正)」を伝えるために隠しカメラを使ったことを「フェアでない」と問題にするとすれば、それこそ「フェア」ではなく、笑止千万の屁理屈だ。
他にどんな理由が考えられるだろうか。これは私の邪推にすぎず、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」ほどの伝統を持ち、世界的な評価が定まった国際映画祭にはありえないことだろうが、何か「政治的な判断」があったのではないだろうかと推測してしまう。つまり「日本政府の『入管政策』の悪政を鋭く追及し、『民主主義の先進国』という日本の化けの皮を剥いでしまうこの映画を、世界的に注目される『インターナショナル・コンペティション』部門で上映することは、政府や地方行政、それに関係する映画祭のスポンサーをあまりにも刺激するから」という映画祭側の“忖度”があったのではないかという邪推である。
いずれにしろ、この映画『牛久』が山形国際ドキュメンタリー映画祭できちんと評価されないのなら、海外のさまざまな映画祭で改めて真価を問うてみるべきだろう。
そしてなりより、この映画はできる限り多くの日本人に観せるべき作品である。そのためにできるだけ早く日本全国の劇場で公開すべきだ。
今回の山形国際ドキュメンタリー映画祭で私が観た全作品の中で、私にとって“最高のドキュメンタリー映画”である。
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