2023年3月31日
【映像版「チェルノブイリの祈り」】
原発事故以来12年間、福島に通い、ドキュメンタリー映画を作り続けている私が、目標とする作品がある。スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの『チェルノブイリの祈り』である。チェルノブイリの原発事故から10年後に発表されたこの作品には、この事故で生活、人生を破壊された被災者たちの証言が延々と並ぶ。その中には「原発事故」そのものに言及し、声高に糾弾する声はない。「原発」という言葉さえもほとんど出てこない。しかしその原発事故で生活を、家族を、生きる希望、意味さえをも激変、喪失させられた深い悲哀が淡々と語られる。読者は読み進めるうちに、言葉として言及されていない「原発事故」の身震いするほど恐ろしさを実感していく。
古居みずえのドキュメンタリー映画「飯舘村 べこやの母ちゃん――それぞれの選択――」は、まさに映像版「チェルノブイリの祈り」だと私は思った。福島原発事故が被災者たちの生活、家族、穏やかな人生を残酷なまでに破壊していく様を、「原発事故」という言葉を声高に叫ぶ手法ではなく、飯舘村の3人の女性酪農家たちのそれぞれの日常生活の変化と、その中で必死に生き抜く3人の姿と声を10年という歳月をかけて丹念に追うことで、見事に描き出してみせた。
「大きな出来事があるから現場へ行く」のではない。日々の料理や食事光景、農作業や牛の世話、家族の何気ない日常会話・・・、変哲のもない“日常”を淡々と撮り続けるのだ。
「光り輝く鉱石」つまりドラマチックなシーンをいくつか並べて作品にするのではなく、路傍のなんでもない小石を丹念に拾い集め、それを気の遠くなるような長い時間をかけてこつこつと積み上げて家を作る――古居のこの映画「飯舘村 べこやの母ちゃん」はそんな作品である。だから「退屈なシーンの羅列」「似たシーンの重複」という批判の声があるかもしれない。しかしあの原発事故が一人ひとりの人生をいかに残酷に破壊したかを観る人に伝え納得させるには、その変哲もない“日常”が徐々に変化していくさまを丹念に見せていくしかないのだ。古居は、10年におよぶ“日常の微妙な変化”を丁寧に記録し、この原発事故が人間の人生を破壊するさまを私たちに突き付けるのである。これほど強烈な“原発事故への怒り”のメッセージが他にあろうか。
【尊敬され、感謝されるドキュメンタリスト】
私自身、飯舘村の酪農家とりわけ長谷川健一・花子夫妻を取材・撮影していた時期があった。だから映画の中に登場するいくつかの現場に私も居合わせた。
例えば、長谷川家の乳牛を屠殺のために出荷するシーンは、私を含め多くのカメラマンたちが撮影していた。その大半が “主役”の健一に一斉にカメラを向けるなか、古居のカメラは“脇役”の花子に向けられていた。「女性の目線で撮り、女性を伝える」という“パレスチナ”以来の古居の一貫した姿勢である。
原発事故の年の大晦日、長谷川家の食事シーンでも、私も古居の横でカメラを回していた。しかし私と違うのは、古居はその翌年も、その次の年も大晦日の同じ食事シーンを撮り続けている。そうすることで初めて長谷川家の微妙な変化が見えてくるのだ。生活を丹念に撮る古居の“粘り強さ”を象徴するエピソードである。
古居の映画を観ていつも驚くは、「撮影する側」と「撮影される側」の“関係性の近さ”“親密さ”である。登場する3人の女性たちがまるで家族や親友にでも語るように、本音をさらけだすのだ。これはドキュメンタリー映画の成否を決定する最も重要な要素の一つだ。古居はなぜこんな関係性が作れるのか。
フクシマの映画に限らない。古居の代表作、ガザ地区で暮らす若いパレスチナ人女性と家族を描いた映画「ガーダ パレスチナの詩」(2007年)も「撮られる側」「撮る側」との深い信頼関係が結実した傑作である。主人公のガーダに、私はガザ地区で古居について訊いたことがある。そのときガーダは、「ミツ(古居はパレスチナではそう呼ばれている)からジャーナリストとしての姿勢を教えてもらった。心から尊敬しています」と涙ぐみながら私に語った。
「飯舘村 べこやの母ちゃん」の登場人物の一人、中島信子も、舞台あいさつのために上京した折、私にこう語った。
「こんな平凡な私のことを10年も記録して映画にしてくれた。古居さんがいなければ、私は東京で舞台あいさつするなんて体験をさせてもらうことは絶対なかった。ほんとうに古居さんに感謝しています」
取材した相手から、「尊敬」「感謝」されるドキュメンタリスト。同業者として私はそんな古居に嫉妬さえ感じる。言葉巧みに取材相手にすり寄るわけでもない。媚びへつらうわけでもない。むしろ口下手で、取材相手との向き合い方も不器用にさえ見える。しかしいつのまにか、相手の心を開かせるのだ。それはおそらく「取材させもらう」という古居の謙虚さ、「相手の尊厳を絶対に傷つけてはいけない」という誠意を、取材される側が古居の取材姿勢の中から敏感に感じ取るからだろうと私は思う。
【ハンディを逆手に取る】
古居は、同じく福島へ通い取材する私と違い、大きなハンディを抱えている。 “足”つまり交通手段だ。古居は車の運転ができない。都会と違い公共交通機関が不便な福島の田舎では、自由に移動できる車がないことは大きな障害となる。
まず東京と福島との往復。毎回新幹線で通っていては多額の経費がかかり干上がってしまう。そこで古居は福島市内の安アパートの一室を借り、そこを取材拠点にする道を選んだ。
次は、福島市内から飯舘村など取材地への移動だ。バスを使うしかないが、そのバス停から目的の家までは歩ける距離ではない。そんな古居を手助けしたのは取材相手の長谷川花子や中島信子たちだった。彼女たちがバス停まで車で古居を送り迎えするのだ。古居が築き上げた取材相手との “人間関係”“信頼関係”である。
古居のこの“足”のない不便さは、結果的にこの映画には功を奏したのではないかと私には思える。車で自由に移動できる私はあちこち動き回り、複数の取材対象に目移りして右顧左眄、右往左往して、結局、どれも中途半端な取材に終わってしまいがちだ。しかし古居は、最初に決めた3人の女性酪農家から10年間、目を離さずひたすら追い続けた。いや自由に移動できなかったが故にそうせざるをえなかったのだと思う。つまり古居は“不便さ”を逆手にとってこの映画を作り上げたのだ。
古居には大きな“強み”がある。多くの支援者たちに恵まれていることだ。膠原病という難病など様々な障害を抱えながらも、細い小さな身体でひたすら“パレスチナ”や“フクシマ”の映像記録を遺そうとする古居。そんな彼女の“情熱”“一途さ”“直向(ひたむき)さ”に感動し共鳴した人たちが“支援の会”を立ち上げ、古居の取材活動を支えた。また“足”のない古居のために、運転手を買って出て福島取材を支えるボランティアもいる。古居の“人徳”である。
一本のドキュメンタリー映画を世に出すために、10年近い歳月を懸け、文字通り生活、人生を削るようにして映像記録を生み出してきた古居みずえ。彼女にとっては“撮り、ドキュメンタリーを作る”ことが“生きる”ことのようにも見える。たとえ今は華々しい脚光を浴びることはなくても、彼女の作品は、“ドキュメンタリスト・古居みずえ”の名と共に後世に遺る。私はそう信じている。
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