2024年1月10日
たくさんのお祝いのメッセージありがとうございます。
70歳台になってから2度目の誕生日。1年前とは大きく状況が変わりました。
1年前は、「愛国の告白―沈黙を破る・Part2―」という映画の劇場公開に追われていました。この映画は私の中で「パレスチナの最後の映画」になるはずでした。1985年以来、34年間、通い続けたパレスチナには、2019年夏を最後に、「もう行くまい。もう“パレスチナ”から離れよう」と決めていました。コロナで現地に行けなくなったことが大きなきっかけでしたが、「34年間で、私なりにやってきた。これからは残された時間を国内でできることに集中しよう」と考えたのです。
しかし、10月7日、そんな私の決意を揺さぶる事件が起きてしまいました。翌朝、山形にいた私に、連れ合いが「ハマスがイスラエル国内の音楽祭会場を急襲し、200人を超えるイスラエル人が殺された」という第一報を電話で伝えてきました。
これまでイスラエルによる4回のガザ攻撃のうち、私自身、2回現場で取材してきました。とりわけ2014年、52日間続いた攻撃の最中、私は30日間、現場でその被害の実態を追いました。その攻撃の理由をイスラエル側は「ハマスのロケット弾攻撃への報復」と主張してきましたが、今回は200人を超える民間人の犠牲者(最終的には約1200人であることが判明しましたが)が出してしまった。第一報を聞いた瞬間、今回のイスラエルの「報復」は異次元のものになることを、長年パレスチナ・イスラエルを取材してきた経験から私は直感しました。
その結果が、今のガザの状況です。
横浜に戻ってから、日本のメディア報道はもちろん、BBCなど海外報道で現地の様子を追ってきました。激しい空爆、そして地上侵攻によって住民の犠牲者が急増し、12月下旬には2万人を超えました。瓦礫の下に埋まったままの「行方不明」の犠牲者の数を入れると、その数をはるかに超えるはずです。そして人口約220万人のガザ住民の8割を超える人びとが住処を失いました。イスラエルの封鎖によって、食料、水、燃料、医薬品の搬入ができなくなった住民たちの生活は悲惨なものです。
幸い、事件直後から、私はガザの友人のジャーナリストMとネットで通話ができる環境を確保しました。7日~10日に一度の間隔で、Mから伝えられる現地住民の生活の過酷さを私は直に知ることができました。その情報を私はFBの連載コラム「ガザからの報告」で伝え、その映像を編集し、一部をテレビで放映する準備をしています。
「もう“パレスチナ”から離れよう」と考えていましたが、そんなことを言っていられなくなりました。長年、“ガザ”と関わり伝えてきた私だからこそ、今やらなければならないことがあるはずです。
現在、私は2つのことを進めようとしています。
1つは、“ガザ”の記録をドキュメンタリー映画として伝え、後世に遺すこと。
昨年12月以来、私が約30年間撮影した過去の映像を再編集し、映画「ガザ―オスロ和平合意から30年の歩み―」(3時間30分)として制作中です。3月2日に、「江古田映画祭」で初公開します。今年中に国内で劇場公開し、海外へも発信できればと願っています。
2つ目は、ガザへの支援です。
私がこれまで制作してきたガザに関する映画を自主上映してもらうことで「ガザ」について多くの人たちに知ってもらい、さらにその上映を通して支援金を集め、食料や衣料、医薬品がなく、現地の友人が伝えてくる「まさに飢餓が始まっている」住民にわずかながらもその支援金を直接届けることです。
幸い、その友人にネットで送金することができます(その友人と家族を支援するために、私自身、定期的に送金しています)。その友人の周辺で食料や、冬の寒さの中でテント暮らしを強いられる人たちの衣料を買う金もない人たちを支援してもらうことです。
200万人近い避難民の数を考えると、「焼石に水」かもしれません。しかし1人でも2人でもいい、彼らが生き延びるために、ほんの少しでも役に立てばいいと考えています。
【自主上映作品】
1) 「ガザに生きる」(5部作) (各章を単独で、または組み合わせで上映も可)
http://doi-toshikuni.net/j/life_in_gaza/
【一章・ラジ・スラーニの道】
【二章 二つのインティファーダ】
【三章 ガザ撤退とハマス】
【四章 封鎖】
【五章 ガザ攻撃 】
2) 「ガザ攻撃 2014年夏」(124分)
http://doi-toshikuni.net/j/attack_on_gaza/
「ガザ支援・自主上映」申し込み先
doitoshikuni@mail.goo.ne.jp
(申し込まれた方には、「自主上映申込書」をお送りします)
71歳になった今、私はこれら2つのプロジェクトを通して、三十数年関わってきた“ガザ”は、自分にとって何だったのかを反芻しています。
長い現地滞在のなかで、私は単に取材・報告するだけではなく、出会ったガザの人たちから多くのことを学びました。あれほどの困難な状況の中でも、「他者を思いやり、助け合う優しさ」「利己に走るのではなく、共同体の中に自分が生きる意味を見出す」ことなど、私はこれまで知らなかった人間の在り方を目撃しました。そして“占領下”という厳しい現実のなかで共に暮らす体験のなかで、私は「家族・共同体とは何か」「抑圧とは何か」「自由とは何か」「人間の優しさとは何か」「人間の尊厳とは何か」など、人間が生きるうえで、“最も大切なこと”を彼らの生きる姿の中から学んできました。そういう意味で、パレスチナとりわけガザは私にとって“人生の学校”でした。
そのガザの大惨事のなかで、長い間、日本にいる私は何をすべきか、何ができるのかわからず右往左往し、悶々とする日々が続きました。そして今、私はやっと自分がやるべきことを見出しました。
71歳。もう残された時間は長くありません。しかし今、せめて自分いう人間を育ててくれた“ガザ”という場所と人びとのために、できるだけのことをすることが私の今の責務なのだと考えています。
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