Webコラム

根津公子インタビュー
「君が代不起立」は若い世代への“プレゼント”

(このインタビューは、2007年2月に行われたものです)

 石原慎太郎・都知事が3選される直前の3月30日、都教育委員会は1人の教員に「停職6ヵ月」の「処分」を下した。3月、勤務する中学校の卒業式で、「君が代」斉唱のとき、起立しなかったことがその理由である。
 その教員、根津公子さんはこれまでも「君が代」斉唱時に不起立を通し、都教育委員会からすでに3回も「処分」を受けてきた、いわば「君が代不起立」のシンボル的な存在である。
 昨年12月に完成した映画『君が代不起立』は、石原都政の「君が代」強制に反対し斉唱時に起立しなかったため停職処分などを受けた教師たちのたたかいを追ったドキュメンタリーで、全国で上映され、反響を呼んでいるが、その主人公の1人が根津さんである。映画の中で根津さんは、停職処分され勤務できない中学校の校門前に、処分に抗議するプラカードを持って毎週「出勤」し続けている。
 「6ヵ月の停職」の後にあるのは「免職」。その危機にも関わらず、なぜ根津さんは「君が代不起立」を続けるのか。インタビューを通して追った。

〔理想の教育〕

 神奈川県の西の端、静岡県との県境のみかん専業農家に生まれ育った根津公子さんが教員をめざす大きなきっかけになったのは短大生のときだった。
 ふと本屋で手にした日本と朝鮮の現代史の本を読んだとき、根津さんは衝撃を受けた。中学や高校の歴史の授業ではまったく教えられなかった歴史事実に初めて触れたのだ。次に読み進んだ日本と中国との現代史の本にも、中国に出征した父親から聞いた話とはまったく違う現実が記されていた。「学校で何も教えてもらえなかったんだ」と気付いた根津さんは事実をきちんと教える教師になろうと思った。
 在籍した東京都内の短大では家庭科の教員免許が取得できた。「男女が別々に授業を受ける差別の教科」の家庭科の授業なら、子どもたちが社会の問題と触れ合う話もできると思い、家庭科の教員をめざした。
 念願の教員になっても「決して平坦ではなかった」が、「この仕事をずっと続けていきたい」と思うきっかけになったのは1990年から勤務した八王子市の石川中学校での教師生活だった。

根津:一番大きいことは、教員たちでしっかり話し合う時間が確保できたことです。石川中では、本当に子どもに必要なことは何かということを、とくに学年の教員10人で常に話し合ってきました。それは、授業を潰してでもやったんです。なぜなら、私たち教師がどういう姿勢で子どもたちと接していくかは、1時間の授業を1人がどうするかということよりも、もっと大事なことがあるからです。だから徹底的に話し合ったんです。そのため、「今日は悪いんだけど、6時間目はこういうことでカットにするから、家に帰ってね」というのも時々ありました。

─それを校長も容認したのですか?

根津:容認したんです。教育委員会は「それはおかしい」と言ったけれども、私たちは、「大事なことなんだからちゃんと説得してください」って言って引き下がらない。それは子どもたちのためだという確信が私たちにありましたから。
 夜まで話し合うこともありました。そうやって話し合う時間を取って、「そうだこれで行こう」ってみんなで決めたところで動き出すんです。そうすると、みんなどうやって動くということがわかっていて動くわけですよね。わかっているということは責任も一緒に負っていくわけです。今のように、学校がどう動いているか全然わからずに、ただ「駒」として動かされるのとは全然違う。だからみんな意欲も意識も持って動く。だからものすごい効果なんですよね。
 教員たちがしっかりまとまっているというのは、子どもたちにもわかるんです。先生たち本当にみんな仲がいいね、って言うんですから。子どもたちも自分たちは教員たちから信用されてるってしっかり感じる。するとめちゃくちゃなことを誰もしないんですよ。東京のごく普通の子どもたちなんです。ところが、小学校時代に荒れていた子どもたちが、中学に入って、「教員たちの対応が違う」中で変わっていくんですね。

 1990年に根津さんが赴任するまで、石川中学校でも卒業式や入学式で「日の丸・君が代」が実施されていた。しかしその後、根津さんを中心に職員会議で教員たちが議論するなかで中止が決まった。ところが94年の卒業式のとき、校長は教員の反対を押し切って日の丸を掲げた。生徒たちからも「降ろして」「いや自分たちで降ろそう」という声があがった。「子どもたちに降ろさせるわけにはいかない」と根津さんが式の直前、日の丸を降ろした。これによって減給処分という第1次処分を受けた。
 それにしても、なぜ生徒の中から「日の丸を降ろそう」という声が上がるのか。

根津:学校で自主的に生徒の中から出てきた背景には2つの要因がありました。1つは“子どもたちが主人公”という意識です。「生徒会は自治をするためにあるのだから、あなたたちが一番良いと思うことを生徒会で話し合って。私たちも協力するから」と伝える。学級や学年で取り組むときもそうです。入学して間もない頃は「先生これやっていい?」と聞いてくる子どもたちに「違う。あなたが何をやりたいのか、またクラスのみんなが何をしたいのかを考えるべきで、教員にやっていいかどうか訊いてはいけない」と言うんです。すると、最初はまごつくけど、そのうちに自分たちでやっていいんだと考えるようになるんです。
 もう1つは、歴史事実をしっかり伝え、子どもたちに考える機会を与えるために、石川中で平和教育をずっと3年間やったことです。1年生のときには教員が中心となって、例えば『はだしのゲン』を見せたりして、いろいろな平和の定義をしていきます。1年生の段階で少し種が撒けたところで、2年生からは、平和学習を自分たちでやっていきたいと思う生徒が立候補して実行委員会を作る。その中でやりたいいろいろなテーマを設け、勉強していき、3年生で広島などへの修学旅行につなげていきます。戦争中の歴史を見ていく中で「日の丸・君が代」のことも当然、出てきます。そしてそれが戦争の中でどんな役割をしたのかを子どもたちは知っていくんです。

〔弾圧〕

 石原都政が始まり教育現場への締め付けがいっそう厳しくなった2000年、根津さんは10年間勤務した石川中学校から多摩市の多摩中学校へ異動となる。市議会議員の証言によれば、多摩市の教育長は「根津さんを多摩で採ったのは現場から外すためだった。尻尾をつかみたいと網を張ってきたがなかなかできない。早くつかみたい」と語ったという。
 10年間にほとんど不登校の子もいなかった石川中から多摩中に移り、最初に門をくぐったとき、根津さんが真っ先に感じたのは「石川中の子と目が違う。大人を信用していない目だ」ということだった。石川中時代には理解できなかった「キレル」ということがどういうことか、多摩中で初めて知った。
 根津さんへの学校側、教育委員会の攻撃が激しくなったのは赴任から10ヵ月ほど経った2001年2月だった。「家庭科のクラスで従軍慰安婦の授業をした」というのが非難の理由である。校長は「従軍慰安婦問題は家庭科ではない。授業で家庭科でないことをやっている」と保護者たちにも喧伝した。教育委員会の授業視察も始まった。「なぜ根津先生の授業だけ教育委員会から視察に来るのか」と問う生徒たちに校長は「根津は自分の保身のために生徒を利用している」と告げた。その言葉は生徒たちや保護者たちに瞬く間に浸透していった。6月末には緊急保護者会が開かれ、「従軍慰安婦の授業をするな」「子どもを自分の保身のために利用するな」と根津さんは激しく糾弾された。「辛いというより、嘘がここまで浸透するのかと呆れ、もう戦前の「非国民」叩きだと思いました」と根津さんは当時を振り返る。
 緊急保護者会の翌日から子どもたちの根津さんに向ける目つきが急変した。目を避ける子ども、敵意を露にする子どもの数が日一日と増えていった。根津さんはいつも子どもたちの声を聞きながら授業をしていく。しかし子どもたちが心を閉ざしてしまうと、問いかけても反応は返ってこない。とても授業ができる状況ではなかった。

根津:教育委員会からやられるのは、私はもうかなり抵抗力がついていましたが、子どもからのはやっぱり辛くて、もう本当に逃げ出したくなりました。子どもたちが周囲から“操作”されたのは確かだけど、昨日まで私のことを信じていてくれた子が目を合わさなくなり、あるいは敵対するような目を向けたりと、今日は1人、明日は2人というように変わっていくわけです。それはもう本当に、罵声を浴びせられるのと同じに、本当にキツイですよ。もうとても、その状態に身を置くことが出来ないくらいに、たまらない気持ちになって。「もう消え入ってしまいたい」。当時いつも、いちばん思っていたことです。でも消えてしまうためにはもう自殺しかないでしょう? 自殺なんかしたら、自分はいいけど、残された子どもや家族はたまったもんでない、ずっとそれを引きずらなければならないんですから。
 毎日、「今日は学校へ来れたけど、明日は朝起きられないんじゃないか。出勤拒否のような状態になるんじゃないか」という恐れがありました。それで、その日1日頑張って、やっと1日が過ぎると、自分に「よく頑張ったね」って言い聞かせるんです。「まあとにかく家に帰って、しっかり睡眠時間をとって明日に備えよう」と思うんです。そして朝起きると、「ああ、また起きられた。今日も頑張れるかな? 頑張ろう」って言い聞かせる毎日でした。
 そういう状態が7月、9月と続いたとき、私は、「仕事を辞めてしまえばもうその苦しさから逃れられる。どんなに楽か。逃れちゃおうか」という誘惑ももちろんありました。
 でもね、もう少し考えてみると、ここで私が負けて仕事を辞めて逃げてしまったら、私はきっとこの先50年間自分を好きでいられないだろう、と思ったんです。私が“私”として生きる、そのためにはここから逃げ出すわけにはいかない、と。自分に負けて、自分を偽って生きていくことは出来ないと思ったんです。それはもう魂を売るのと同じことでしょう。
 もし本当に自殺まで考えるようだったら逃げるでしょうけど、幸い、そこまでは行かずに済みました。それは、毎日毎日、自分の中で「私は間違っていない」と確信をし、「よくやったね」って自分で励ますということを繰り返したからだろうと思います。
 少なくとも私は生徒に嘘をついていない。だから「1日よく頑張ったね」と、また自分に言い聞かせて、それでなんとか埋もれずにすんだんです。
 そしてもう1つの支えは石川中学校のかつての生徒たちでした。私のホームページを見て何人もの元生徒たちがメールをくれたりしたんです。「先生がやっていたことは間違っていなかった。すごくよかった」と。私が石川中でやったこと、みんなで取り組んだことは間違いではなかったという確信がもてました。その2つで乗り越えたんです。

〔不起立の葛藤〕

 根津さんはホームページの「『どうして君が代にこだわるの?』と不思議に思うあなたへ」という文章の中で、「日の丸・君が代」強制に反対する理由をこう書いている。

 ふだん教員は生徒に、「考えてから行動しなさい」と言っているのに、「日の丸」「君が代」のときだけ何も知らせず、考えさせず、指示に従わせる。このようなやり方は、教育と相反する行為であり、学校ではやってはいけない行為だと私は思うのです。

 「日の丸」「君が代」について生徒に何も知らせず起立や斉唱をさせるという、教育に反することには、教育委員会の命令だからといって従うわけにはいかないのです。おかしいことは反対するのが、自分の仕事に責任を持つことだと思うのです。

 戦前・戦中、日本の社会は「天皇の命令」が絶対で、命令に疑問を持つことさえ許さない、命令・服従の社会でした。学校はそれを教えるところになっていました。教員たちは国(=天皇)の命令通りに、「なぜ」と疑問を持たせない教育をしました。その結果、子どもたちは「愛国少年」になり、進んで戦争に行き、命を失いました。
 戦争が終わったとき人々は、上からの命令に考えずに従っては再び同じ過ちをしてしまう、皆が考え話し合って決めていかなければいけない、と気がつきました。(中略)教員の中には、なぜあの時、国の命令に反対できなかったのかと、後悔した人が少なくありません。そのことを知った私はそれを繰り返さないよう、いま、おかしいことはおかしいと発言し、行動していこうと思います。

 根津さんはこれまで、卒業式や入学式において君が代斉唱での不起立のため、2005年3月(減給10%・6ヵ月)と4月(停職1ヵ月・ボーナス0)、さらに2006年3月(停職3ヵ月・ボーナス0)と3度、都教育委員会によって処分を受けている。
 その根津さんが1度だけ迷い、一時起立したことがある。2005年3月の卒業式の前、都教育委員会は3回処分したら免職すると警告していた。今度、不起立で処分されたら、免職される可能もあった。一方、根津さんの不起立問題で、立川二中の校長は、教育委員会からの圧力を受け精神的に追い詰められ、どんどん痩せていった。根津さんは迷った末、「君が代斉唱で、途中まで起立する」と決め、校長に「根津は立つと言った、そう指導できたと教育委員会に報告してもらっていい」と告げた。また「君が代・日の丸」の授業をしていた生徒たちにも「今回は、自分の意に反して立ってしまうかもしれない。そうなったら、自分の言っていることと、やっていることが違って申しわけないから、事前に謝っておきたい」と報告した。

根津:校長のことをそこでは引き合いに出さないで、自分のことだけ話しました。「反対だと言っておきながら、情けないもんだというふうに思ってもらって結構だから。それは居直りで言っているのではなく、ほんとうに情けなく恥ずかしいことで、自分はそんなもんなんです」と言ったんです。そう子どもたちに謝って、最初は起立をし、途中で座りました。私は自分の気持ちを整理して、それで起立するということを選択したつもりだったんです。でも、人間の感情はそんなに簡単にコントロールできるものではないんですね。「国歌斉唱」という声が聞こえたとき、もう1秒もしないうちに、私は心臓がバクバクしてきました。そして頭の中に1枚のセピア色の写真が浮かんだんです。中国大陸で、上官から初年兵が、目の前の中国人捕虜を銃剣で突き刺せと命令を受けている写真です。そのシーンが、起立している今の私とダブってくるんですね。ああ、こんな約束をしなければよかったと思ったんですが、もうしてしまったので後の祭りで、とにかく「さざれ石の……」という箇所まで歌詞がきたら私は座ると教頭に言っておいたので、「さざれ石の」が早く来ないか、と思い、やっとそこまで歌がきて私は座りました。そのとき「銃剣を突き刺さなくてよかった」とほっとすると同時に、「こんなに自分が苦しくて、しかも子どもに嘘をつくようなことは、もう金輪際やめよう」と思ったんです。だから、“踏み絵”を踏むことは、私はそれ以来出来ないんです。

〔教師の職責〕

 根津さんにとって“教員”という職業は何なのだろうか。「教員という仕事を自分の“天職”だと思われますか」という問いを投げかけてみた。

根津:「天職」っていう言葉を使うのはどうかと思いますが、私は教員になって本当によかったと思いました。子どもはやっぱり一人の人間です。本当に子どもと通じあうことも人と人との出会いなんです。教員になって、いろいろな出会いを子どもたちからもらったし、その中でものすごく自分が成長させられたと思うんです。

─「自分が成長させられた」とはどういうことですか。

根津:歳を経るごとに、私はいろんな見方が出来るようになってきたなと思います。20代は全く出来なかった。自分が子どもを育てることなんて、全くわからなかった。30代は楽しかったけれども、そのときも今から見れば、楽しくやっていたけど、すごく表面的なことを子どもともやっていて、表面的な付き合いだったんだなと思う。そして石川中学校での体験の中で、すごくいろいろなことを私は吸収出来ました。子どもから発せられた言葉で、「ああこんなふうに感じていいんだ」と思うことがあったり、子どもの感じ方に、「おお、すごい」って感動したり。私もそういう感じ方をしたいと思うことも随分あります。その中で私の感情もすごく豊かになった。だから教員という仕事をしていく中で成長させられたと思うんです。

 「君が代不起立」で都教育委員会に処分された体験も、根津さんは前向きに捉えようとする。

根津:(都教育委員会の)攻撃も悪いところばかりではなくて、私にはすごく自分を見つめ直す機会になったんです。苦しくなればなるほど、自分が何なんだって考えないと、先が見つからないでしょう? 例えば学校の門前に立つことも、頭では「門前に立ちたい」と思っても、やはり最初は周囲の目が気になりました。「門前に立ってどうなるんだろう」と思うこともありました。しかし立ってみたら、そこでいろいろ体験する。喜びも受けるし、すごい嫌がらせも受ける。その中でまた私は考えることが出てくるわけです。そうやって一つ一つ乗り越えていく中で、私はすごく成長させられたなって思います。だから、攻撃も含めて、不幸も実は不幸じゃなくなるんです。
 もし教師をやってなかったら、そういう子どもとのやりとりも全然ないわけです。すると、私は自分の直径1メートルの中で生活をせざるを得なかったと思います。もし攻撃されたら、逃げ出してしまったのではないでしょうか。攻撃に私が踏み留まることが出来たのは、子どもに対する責任です。その責任から私は攻撃を受けてもやっぱりやろうと思うんです。それに自分を失いたくないという思いです。私は本当にいい仕事に就けたなと思います。

─自分への圧力をそのように前向きに受け止められるというのは、強いですね。普通の人は潰されてしまいますよ。

根津:いいえ、これも徐々の攻撃でしたから、耐えられる水面がだんだん高くなっただけのことですよ。

─もう怖いものはないでしょう?(笑)

根津:(笑)。だって今の時代は殺されないものね。昔は殺されたけれども。殺されないんだから、殺されない限りはやらなくちゃ、言わなくちゃと思うんです。これを黙っていたら、殺される社会になってしまいますからね。

─若い教員たちの間には、上からの圧力や過労で精神疾患で苦しむ人が急増し、自殺してしまう人も出てきていますが、そんな後輩たちにどういう言葉をかけたいですか。

根津:私はそんな人たちに、「あなた、そんなに自分でおかしいと思っていることをしていないんじゃないの? ちょっと考えてみようよ」と言うでしょうね。みんな一生懸命やってきた人たちばかりでしょう? その人たちが教員に採用されて半年、1年で教員の仕事を辞めたいなんて思うはずがない、つまずきがあったとしてもです。そのつまずきは、周りの誰かがほぐしてあげれば、簡単にほぐれることでしょう? 自信がなくなって、あるいは前途を悲観して、あるいは自分の責任を感じて自死を選ぶようなことはしなくてすむはずなんです。やはりその人たちに、その人が追い詰められた状況が異常だと、追い詰めるほうのやり方が異常だということを知ってもらうことだと思うんです。そしたら死を選ぶなんてことはあるわけないですよ。

─たたかっている教員として、若い教員たちにどういうメッセージを伝えたいですか。

根津:今の日本は、政府が決めたことがすぐ勝手に法案になってしまい、みんな動かされるでしょう? 都庁も、都教育委員会もそうです。上で決めたらそのまんま動かされる。だから地域も、自警団みたいな組織ができ、不審者対策だというふうに乗り出してきますよね。だからちょっと異端なことをすればすぐに目をつけられて排除される。すごく怖い社会ですよね。学校の仕事の中でも、「君が代・日の丸」に象徴されるように、みんなおかしいと思っていることを、おかしいと思いつつみんなそれに乗ってやってしまう。「こんなのやるのはおかしいんだよ」と外に言ってくれればいいのに、ほとんど誰も言わない。
 だから私は若い人に「教えられたことだけではなくて、何事に対してもいつも疑問を持って」と伝えたいんです。教員の社会も、命令で動かされることがすごく多いんです。「あれをしなさい、これをしなさい」に対して「はい、わかりました。します」ではなく、「それは何のため?」「そのことをすれば、どんないいことがあるの?」ってことをいつも考える。学校の中では「それが子どもの成長にどう影響するの?」というふうにいつも考えて欲しいと思うんです。

─根津さんの「君が代不起立」もそういうメッセージなのですか。

根津:「君が代」で不起立するということは、子どもたちに対する私自身の責任であり、私の教育活動の一部です。もし私たちがそれをしなかったら、学校現場はもう今よりももっとひどい状態になります。今でももうほとんど死んでいますが、学校現場が完全に国家のものになってしまう。それを食い止めるには、「君が代」で不起立するということを徹底的にしなければいけない、と私は思っているんです。そのことによって、ひどい状況を少しでもひどくない状態で、私たちは若い人たちに引き渡せるんです。だから、不起立は私自身の教育活動でもあるけれど、若い人たちに対する、私が出来る“プレゼント”と思っているんです。他の人たちにも「昔私たちが先輩の教員から受け継いだのと同じように、不起立は私たちができる若い人たちへの“プレゼント”なんじゃないの」と言っているんです。

〔石原3選と東京都の今後の教育〕

─この3月、勤務していた鶴川第二中学校の卒業式でも、根津さんは不起立し、3月30日に都教育委員会(都教委)は、「停職6ヵ月」の処分を出しました。ある程度、覚悟なさっておられたと思いますが、実際、「処分」が下されたとき、どういう思いが胸中に去来しましたか。

根津:「停職6月」と処分書を読み上げられたとき、「教員生命あと1年」とまず思いました。
 予防訴訟判決を受け止め検証するような、理性のかけらもない都教委幹部は、これを控訴し、また、3月初旬には周年行事でピアノ伴奏をしなかった高校の教員を処分していましたから、私も昨年より重い処分が来るだろうことは覚悟していたんです。都教委が、このまま暴走し私を「停職6月」にするか、それとも多少の理性を残して、月数の刻みを小さくし、免職への決断を先延ばしにする「停職4月」の選択をするか、どちらだろうと思っていました。結果は、恐怖政治をしている石原都政そのままの教育委員会でした。次は免職であることを宣言する「停職6月」処分を出しました。私のクビを切って、他への脅しとする、最悪な見せしめ処分です。
 私自身は覚悟をしていましたから動揺することはありませんでしたが、都教委のますますの暴走ぶりを確認する結果となりました。2003年の10・23通達から1、2年で完全に「ガン」(鳥海教育委員発言)を鎮圧できると考えていた都教委の苛立ちが、暴走を招いたのだと思いますね。他県に例を見ない「君が代」不起立での累算加重処分の、しかもそれで免職などという暴挙が裁判に耐えられるとの見通しが、都教委幹部にあるのでしょうか。疑問です。

─次の赴任先である養護学校の教職員へのメッセージの中で根津さんはこう書いておられますね。

根津:私は2年前の卒業式での体験で、もう自分に嘘をつくのはやめよう、おかしいことにはおかしいと言っていこうと決めました。治安維持法下では、生命の危険に晒されましたが、今はまだ生命の危険はないですし、56歳の私には養育義務も家庭責任もありません。懲戒免職になっても何とか生きてはいけます。だから、大して迷うことなく、この決断ができたのだと思います。将来があり、家庭責任がある若い人たちの分も声をあげたいと思っています。

 ─「6ヵ月の停職」の後に来るのは、「免職」で、すでにそのことも覚悟された文章だと思いました。その心境をもう少し具体的に教えてくれませんか。
 また、「そこまでしてなぜ?」という多くの人たちの疑問に、根津さんは、どうお答えになりますか。

根津:2005年の卒業式で途中まで立ってしまったときの体験は、理不尽なことに従ってしまうことで目の前の子どもたちに嘘を教えることになってしまうと強烈に感じ、後悔するものでした。私には到底、耐えられないことだったんです。これでは、教員として子どもたちの前に立てない。私は私でなくなる。もう嘘はやめようと自然に思うに至りました。生きる屍、ではこの先生きてはいけませんからね。
 こうした思いは、私の生き方ですが、先ほど述べました教員になった理由とも重なります。
 世の中に起きている本当のことで、しかし隠されていることについても、子どもたちが考え判断するに足る、多角度から見た資料を提供し、子どもたちと語り合いたいと思い、教員になったのですから、ここで目をつぶることはできません。
 しかも、いま、戦争準備のための法整備を次々と政府は進めています。また、日本経団連御手洗会長が今年元旦の「御手洗ビジョン」で「学校だけでなく、官公庁、企業でも常時日の丸を揚げ」と言った動きもあります。まさに「戦争は学校から始まった」70年前と同じ轍を踏む状況ですから、これを看過することはできません。
 この時代を生きる一人の東京の教員として、大人として、私はその責任を痛感します。

 当然生活のことも考えました。36年間も公務員でいれば、年金は十分に支給されます。受給までの数年間の生活を考えればいいだけのことです。蓄えだってありますから、年金受給までの期間、アルバイトをすればいいだけのことです。たいした覚悟ではありません。
 「そこまでしてなぜ?」とか、「強いのね」などと言われることがよくありますが、そう言われれば私は反対に「なぜ黙っていられるの? 確実に悲惨な社会が来るのを座して待っていられるのはなぜ?」と、きつい言い方かもしれませんが、同年代の教員たちには訊きたくなります。高年齢層が皆で立ち上がったら、都教委の暴走は止まると確信しますから。

─石原の3選に、他の人以上に危機感を抱いておられると思いますが、具体的に石原3選をどう捉えておられますか。これから東京都の教育現場で、どういうことが起こると予想されますか。

根津:石原3選で、東京の教育も生活もますます破壊されること必至です。それは、石原都政が始まった1999年、再選された2003年の区切りを見れば、恐ろしい勢いでやってくることは目に見えています。
 今回も280万票を獲得したわけですが、石原氏に投じたこれらの人たち皆が、石原都政で恩恵を受けたでしょうか? 考えを異にする教育問題をさておいても、福祉の切捨てで経済的被害を受けた人たちや家族がたくさんいるはずです。ワイドショー的報道に流され、都政を私物化した石原氏を選んだ都民の判断も問われなければならないと思います。これも、悔しいけれど、考え判断する力を奪う、日本の教育の「成果」ですね。
 「君が代」の強制と処分もますますエスカレートするでしょう。
 10・23通達発出のときには曖昧にしていましたが、それから4年、都教委は最近の裁判の中で、躊躇することもせず、正直に怖いことを言っています。「起立する教員とこれを拒否する教員がいると、児童生徒は、立っても立たなくてもいいと思ってしまう」と。都教委は子どもたちを調教、洗脳すると宣言したに等しいことなんです。
 これからの4年間で、「君が代」で言えば、「起立」だけでなく、口を開けているか、歌っているかと、処分のハードルは高くなるでしょう。また、卒業式・入学式だけでなく、他の行事でも「君が代」斉唱を行なったり、今年開校した永福学園養護学校のように、「日の丸」を教室に掲げたり、となっていくでしょう。永福学園校長のように、都教委の指示ではなく、競って都教委のお先棒を担ぐ校長も出てくるかも知れませんね。
 これは「君が代」に限ったことではなく、日常的にこのような状況になります。管理と弾圧で、この数年、新採用の若い教員が大勢職場を去り、自死した人まで出ています(いや、都教委によって殺されたというべきでしょう)。若い教員が希望を持って働けない学校が、子どもたちに楽しい空間になるはずはありません。こうした日常も、これからの4年間で、ますますひどくなると思います。

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