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Vol.1 当てのない旅立ち 「ニュースステーション」でムスタファ少年のドキュメンタリーを放映してから1ヵ月半後の7月下旬、視聴者の方々からの反響は予想を越えて広がり、放映直後に立ち上げた「ムスタファ支援の会」への寄金は280万円を超えた。一方、支援してくださった方々から「その後、ムスタファ君はどうしていますか」「脚の症状は悪化していませんか。元気ですか」といった問い合わせが相次いだ。しかしこの間、支援を呼びかけた私自身は、パレスチナ人弁護士の日本招聘、私自身の結婚と目が回るほど私事に追われ、まったく身動きがとれなかった。しかも電話回線が途絶えたままのイラクとの連絡は容易ではなく、ムスタファの近況を知るにはイラクへ向かうNGO関係者やジャーナリストの知人たちに実家を訪ねてもらい、報告してもらうしかなかった。しかしいつまでの間接的な情報に頼っているわけにもいかない。ムスタファの脚の症状も時間を経れば、それだけ治療がおくれ悪化する可能性が強い。治療のための海外移送を急がねばならない。一方、結婚式は済ませたものの、まだ新居に引越しもできないまま出国することにためらいもあった。しかし連れ合いは、「引越しはいつでもできる。ムスタファ君のことを最優先して」と私の背中を押した。結婚式から1週間後の8月3日、私はイラクへ向かうために成田を発った。 「救援を急がねば」という思いで出国はしたものの、ムスタファの海外移送と治療について何一つ具体的なプランがあったわけではなかった。費用、ムスタファの体力、それに言葉や食べ物など生活上の問題からも日本への移送は無理がある、それより言葉も食生活もほぼ同じで、しかも医療レベルが先進国並に高い隣国ヨルダンでの治療が現実的だという判断は固まっていたが、パスポートもないムスタファと父親をイラクから出国させる手立て、ヨルダンでの病院の当てはまったくない。ただ、東京の知人から紹介してもらったアンマン在住のイラク人の連絡先と、アンマンで活動する日本のNGOスタッフの連絡先だけが頼りだった。 だが、そのわずかな手掛かりから大きく道が切り開かれることになった。アンマン到着直後、まっさきに電話連絡したそのイラク人男性はすぐにホテルまで足を運んでくれた。現れたのは温和な表情をした初老の男性だった。アハマド・ガジ氏(アブ・ファイサル)、65歳。英国留学体験のある元エンジニアで、かつてイラク工業省に勤務していたが、父親がサダム・フセインに殺害され、数年前にヨルダンへ亡命し、現在、同じイラク人の娘婿が経営する貿易会社に勤務していた。私が寄付金22900ドルと個人の所持金をあわせた大金を所持していることを知ると、アブ・ファイサルはさっそく私を市内の英国系銀行へ案内した。こんな大金を犯罪が横行する現在のイラクへ持ち込めば、現金だけではなく命の危険さえあるというのだ。ヨルダンでムスタファの治療をするのなら、イラクへ大金を持ち込む必要もなかった。私はドル口座を作り、24000ドルを預金した。 アブ・ファイサルは次ぎに病院探しに取りかかった。日本から所持したムスタファの脚のX線写真と担当医師の診断書(英文)を、彼は知り合いの女医に見せ相談した。するとその女医は、自分が勤務するフセイン王陸軍病院のルートを調べてくれた。その日の夜、アブ・ファイサルを通して、さっそく返事が返ってきた。その病院はイラクに支部があり、そこを通せば、ムスタファをパスポートなしでヨルダンへ移送できるかもしれないというのだ。私がイラク滞在中にその手続をアンマンで進めてくれることになった。暗闇の中に光明が見えてきた。ムスタファのヨルダン入国の可能性と病院の見通しがついたことが、混沌とするイラクへこれから入ろうとする私の不安を和らげ、勇気付けてくれた。
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(c) Doi Toshikuni 2003- |