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Vol.2 ムスタファの変化

 アンマンで2日を過ごした後、私は陸路、バクダッドへ向かった。早朝6時に出発し、バクダッドに到着したのは夕方5時過ぎ(ヨルダン時間)だった。前回の訪問からほんの2ヵ月しか経っていなかったが、気温は日中外に出られないほど暑くなり、夕方になっても熱風に吹かれているように息苦しかった。治安も一層悪化し、市内の繁華街では日中でも強盗に銃撃される事件が頻発するようになったという。街の光景で気づいたもう一つの大きな変化はパトロールする米兵たちの表情だった。以前は市民と談笑する米兵の姿も見られたが、今では軍用ジープや戦車に乗った米兵たちは表情をこわばらせ、いつでも銃撃できるように身構えている。周囲の一般市民がすべて敵に見え、いつどこから攻撃されるかわからないという恐怖心がそうさせているのだろう。襲撃される米兵の犠牲者は5月末、私がバクダッドを離れて以来、急増していた。

  バクダッドに到着した翌日の8月7日、私はムスタファの実家を再訪した。5月に別れた直後にムスタファが病院を退院し自宅で療養していることは、訪問してくれた日本のNGOスタッフの方から連絡を受けていた。

  ベッドで寝て過ごす生活が続いていると思っていたが、意外にもムスタファは居間の長椅子に座って過ごせるほど元気になっていた。左脚には金具が入ったままだったが、心配していた左足の壊疽は進行していなかった。血液は足の先まで通っているらしく、血色がもどっている。筋肉の一部を左脚の患部に移植した右脚の傷は治っていたが、ケロイドのような傷痕を残していた。

  なによりも変わったのはムスタファの表情だった。病院にいたころは、いつもしかめ面で眉間に皺を寄せ、口数も少なかったムスタファに笑顔が戻っていた。口数も増えた。早口でまくしたて、頭の回転の早さをうかがわせる。本来、ムスタファはこんな子だったのだろう。家族との心の触れ合いと温かい介抱が、ムスタファをこれほど精神的に回復させたにちがいない。左脚の傷と太ももに突き刺さった金具は痛々しかったが、それを感じさせないほど笑い、しゃべる。それが救いだった。

  居間のテレビで時々放映されるアニメ番組は幾分気晴らしにはなっても、一日中長椅子に座ったり寝転んだりして時間を過ごすしかない生活は退屈にちがいない。そんなムスタファに絵本と共に画用紙と色えんぴつをプレゼントすると、さっそく絵を描き始めた。太陽と川と空の絵だった。川と空の色が同じなのでその境がわからなくなったとこぼすムスタファに、父親のエマドが、空の青を白で薄め、境界に濃いめの青で線を引くようにアドバイスした。

  幾分、気温が下がる夕方6時過ぎにムスタファの家を訪ねるのが日課となった。病院で治療をしなくなった代わりに、毎日抗生物質のシロップを飲み、両親が定期的に傷口を消毒液で洗う「治療」をするようになっていた。ある日訪ねたとき、ちょうどその「治療」の最中だった。このとき私は初めてムスタファの脚の傷痕を目の当たりにした。5月、病院に通っていた頃は傷口はずっと包帯に覆われていたからだ。左脚のふくらはぎには長さ10センチほどにわたって、ざくろのようなわれ目ができ、中から肉が盛り上がっている。その一部はまだ傷が癒えず、膿のような汁がにじみ出ていた。

  もっと痛々しかったのは、爆弾の破片が貫いた患部だった。左脚太ももの内側だ。肉がえぐり取られたようにくぼんでいる。その傷口を縫い合わせた痕が生々しい。その反対側に金具が肉に食い込んでいる。複雑骨折した骨をその金属の棒で固定させ、骨の成長によってつなげようとするものだ。その金属の先は骨にねじりこまれている。その金属の棒が肉に食い込む部分を消毒するとき、ムスタファは悲鳴をあげた。このまま放置すると、この金具はずっとはずせなくなってしまう恐れがあった。


2003年8月
土井敏邦
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