|
||
Vol.3 ヨルダン移送の準備 ムスタファの家に通う一方、ヨルダンに彼を移送するための準備を急がねばならなかった。一番可能性の高いイラクのヨルダン軍病院ルートは、その手続に奔走してくれているアンマンのアブ・ファイサルと女医からの報告を待つしかない。しかし私もじっと待って時間を過ごすわけにもいかない。私はもう1つ、国連のルートを模索した。パレスチナ・ガザ地区のラジ・スラーニ弁護士の友人で、当時バクダッドの国連本部に勤務していたパレスチナ人、モナ・ラシュマーウィ女史が糸口だった。ガザからラジが彼女に連絡し協力してもらうようにとメールを送ってくれた。国連本部が爆破される9日前の8月11日、私は本部のモナを訪ねた。ムスタファの事情を聞いた彼女は、国連を通してムスタファをアンマンへ送るために国連の1組織「国際移住機構(IOM)」を知人を紹介した。バクダッドの中心地にあるそのオフィスで、私はそのイギリス人スタッフ、アンドレアス・ハルバッチ氏にムスタファの写真、担当医の診断書などを見せ、アンマン・バクダッド間の国連の定期便でムスタファをアンマンへ移送してほしいと願い出た。ハルバッチ氏はムスタファの事情を理解し、「特別な例外としてムスタファを国連機で移送する可能性はある」と答えた。手続のために必要な父子の身分証明書などの書類を出してほしいと言う。もしヨルダン軍病院のルートがうまくいかなかった場合には、この国連ルートが使えるという感触をえた。 しかし、この時点で最優先はヨルダン軍病院のルートだった。これならば国境はフリーパスだろうし、病院の車ならアンマンまでの長旅の途上で、ムスタファが体調を崩した場合、すぐに医療関係者による対応ができる。しかもアンマンで病院探しに時間を浪費する必要もなく、ヨルダンで最高の医療レベルだと定評のあるフセイン王陸軍病院へ自動的に入院できることになる――これらの諸条件を考慮すれば最良の方法だと判断したのである。 一方、ムスタファの父親エマドは正面突破の道を模索していた。戦後、イラクの政府機能が完全に麻痺し、パスポートを申請しようにもその窓口はない。エマドは米軍の占領当局に直接、渡航許可を申請する道を選んだ。しかしその結果は惨憺たるものだった。 8月9日、占領当局の本部がある宮殿への入り口へ行ったエマドは、警備する女性兵士に通訳を通し、こう訴えた。 「息子の治療のためにイラクを出なければならないが、パスポートがなく、渡航許可書が必要です。(占領当局の最高責任者)ブレーマー氏がテレビで『イラク国民は海外へ出る自由がある』と言っているのを聞ききました。私は観光に行くのではありません。息子の治療のために出国したいのです。しかも緊急を要します。私には診断書もあり、爆破された車の写真もあります。」 すると、その女性兵士はエマドに向かって、「パスポートなんて、くそ食らえ!」と言い放った。 それだけでは終わらなかった。2日後、今度は占領当局のオフィスが置かれている元イラク国会議事堂に出かけ、エマドは再び米兵に訴えた。すると米兵の1人が銃口をエマドに向け、通訳を通して「5秒だけ時間をやる。もし今ここを去らなければ銃撃する」言い放つと、「1,2,3」と数え始めた。本気で撃つつもりだと感じとったエマドは、その場を離れるしかなかった。 米軍の理不尽な爆撃で兄を殺害されたうえに、息子の脚に重傷を負わされたエマド。その息子の治療のために渡航許可を申請しようとして、米兵に浴びせられた罵声。そのときのエマドの心中を想うと、私は彼にかける言葉もなかった。
|
||
(c) Doi Toshikuni 2003- |