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Vol.4 ヨルダン陸軍野戦病院ルートの模索

  ヨルダン陸軍病院ルートについて、アンマンのアブ・ファイサルからEメールの連絡が入ったのは、8月13日、私がバクダッドへ入って1週間後のことだった。

  「陸軍の野戦病院がファルージャという町にある。そこの責任者サラーム医師に会い、ムスタファのヨルダン移送について相談をするように。その病院の本部であるアンマンのフセイン王病院側の上司からサラーム医師にこの件について指示を出してもらうから」という内容だった。このルートでのムスタファ移送がいよいよ現実化する可能性が出てきたのだ。アンマンからの連絡がないことに焦っていた私は、暗闇の中に一縷の光明を見出したような気がした。

  翌朝、助手の車でファルージャに向かった。ファルージャはバクダッドから西へ約60キロ、アンマンへ向かうルートの途上にある。米軍の占領への抵抗が激しい地域として国際的に広く知られるようになった。またここからさらに60キロほど西のラマディとの間の高速道路は、バクダッドとアンマンを往来する外国人の車を狙う強盗が出没する危険地帯でもある。

  ヨルダン陸軍野戦病院はファルージャの町の郊外数キロの砂漠の中にあった。病院といっても、建物があるわけでもない。コンテナハウスをいくつも並べた臨時の簡易病院だった。数日前にバクダッド市内のヨルダン大使館が爆破されたこともあり、金網フェンスで囲まれた敷地の入り口は、自動小銃を持った男が警備の目を光らせていた。私はカメラの持ち込みも禁止された。

  私たちが警備員に訪問の趣旨を説明していたちょうどそのとき、この病院の責任者サラーム医師が近くを通りかかった。私はさっそくムスタファの写真と診断書と見せ、この少年を治療のためにアンマンへ移送してほしいというフセイン病院の幹部の指示を伝えた。通信事情が悪く、アンマンからの電話連絡はまだ届いていなかった。事情を聞いたサラーム医師は私に何の質問もせず、いとも簡単にこう即答した。

  「同じようなケースがたくさんある。実は明日、そういう患者たちをバスでヨルダンへ移送する予定になっている。その子も連れていけるだろう。今日できるだけ早い時間に、その少年をここに連れて来なさい。ここで診察をし、明日、出発できるようにしよう」

  あまりに急な事態の展開に、まったく予想もしていなかった私たちは、喜びより先に、どう対処すべきか戸惑ってしまった。

  私たちはすぐにバクダッドへ引き返し、ムスタファの家に直行した。ムスタファと両親を前に、助手がファルージャでの経緯を説明し、明日、出発する予定であること、そのために今日、ムスタファと付き添いの父親エマドは旅支度をし、今夜はファルージャに泊まることになるだろうと告げた。

「えっ! 明日?」

  母親ナガムは、胸を手で抑えながら驚きと喜びの奇声をあげた。父親とムスタファは微笑んだ。「どんな気持ち?」と助手が訊くと、ムスタファは「うれしい。だってヨルダンで治療を受けられるだもん」とはにかみながら答えた。

  さっそくナガムが夫と息子のために衣服をそろえ、旅行カバンに詰め込んだ。いよいよ家を出ようとするとき、ムスタファの妹、6歳になるススが大声で泣きだし、父親に抱きついた。兄の治療には長い時間がかかり、付き添う父親もしばらく帰ってこれないことを悟ったのだ。

  「お父さん、ススを置いて行っちゃうの?」と泣きじゃくる娘をエマドが抱え挙げて強く抱きしめた。「お兄ちゃんの治療のためだよ。終わったらすぐに帰ってくるよ」となだめるエマド。その頬に涙がつたっていた。

  ススは泣きながら、兄のムスタファに別れのキスをした。ムスタファは手の甲で涙をふいた。同居するエマドの兄弟たちの家族も1人1人、ムスタファに別れのキスをした。みんな泣いている。

  母親ナガムもファルージャの病院まで同行することになった。やっと海外での治療のチャンスが訪れようとしている。車中の3人の表情は希望に満ち、明るかった。

  コンテナハウスを継ぎ接ぎした病院でも、その中は冷房が効き、近代的な医療器具が整う立派な病院だった。これまで訪ねたバクダッドの病院にこれほどの設備が整ったところを目にすることはなかった。この病院はイラク戦争が終結した直後、医療の恩恵を受けられない地元のイラク人のために臨時にヨルダン軍によって作られた病院だった。

  ムスタファはさっそく患部のX線写真を撮り、外科医による診察を受けた。医師は左脚の各箇所をボールペンでつつき、感覚の有無を確認した。左脚は膝のあたりまでわずかに感覚があるが、ふくらはぎの患部の下あたりから完全に神経が麻痺している。母親ナガムがすがるようなまなざしで「治療すれば歩けるようになるでしょうか」と医師に訊いた。すると医師は「神経が麻痺している部分は回復できないでしょう。歩行は無理です」といった趣旨を伝えた。ナガムの表情が瞬時に曇った。そして両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いている。「医療技術が進んだ先進国で治療を受ければ、ムスタファの脚は完治し、歩けるようになるはず」という期待を支えにしてきた母親ナガムの願いは医師の言葉に無残に打ち砕かれてしまった。ずっと泣き続けるナガムを夫のエマドが叱った。

  診察を終えた医師は診断書を作成した。患部の症状を記述したのち、医師は「さらに高度は治療が必要」と書き加えた。私の助手は「これはヨルダンでの治療が必要ということを意味する」と説明した。この診断書に野戦病院の責任者、サラーム医師の署名があれば、ムスタファのアンマン移送の準備は全て整うはずだった。

  しかし予想もしなかった問題が私たちの前に立ちはだかった。診断書に署名するサラーム医師に、エマドにはパスポートがないことを告げると、医師の表情が一変した。頭を横に振りながら、「それではアンマンへの移送はできない」と言うのだ。私は言葉を失った。アンマンでこのルートのために奔走してくれていたアブ・ファイサルの話では「同じヨルダン軍病院間の移送だからパスポートは不要」とのことだった。朝、サラーム医師に相談するときも、「パスポートがない」ことが前提だと思い込んでいた私は、あえて父親エマドにはパスポートがないこと(注・イラクでは親のパスポートが未成年の子供たちのパスポートを兼ねる)を持ち出さなかった。それが失敗だった。医師は「明日移送する患者たちにはパスポートがある。私は医療の専門家であっても、パスポートなしに出入国させる力はない。パスポートなしの移送など政治問題はヨルダン大使館へ行って必要な手続をしてほしい」と取り付く島もない。医師が相談しろというヨルダン大使館は数日前に爆破されて、今はその行方もわからないのである。

  明日のヨルダン行きのためにこの病院に留まるはずだったムスタファと父親を伴って、私たちはバクダッドに引き返した。朝、ムスタファとその家族を歓喜させ、あれほど辛い別れをさせておきながら、こんなかたちで引き返さなければならないことに私は申し訳なく落ち込んでしまった。そんな私を気遣ってか、両親は落胆した様子は見せなかった。むしろ沈み込んでしまった私を、「気にしないでください。他の手段があるでしょうから」となぐさめる。一番喜んだのは、長く父親に会えなくなると泣いていた妹のススだった。

2003年8月
土井敏邦
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