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Vol.5 国連ルートの模索

 ヨルダン軍病院での経緯はすぐにアンマンのアブ・ファイサルにメールで伝え、病院からもらった診断書をFAXで送った。彼はアンマンの軍病院の幹部にもう1度、掛け合ってみると連絡してきた。しかし、このルートに対する私の期待は萎んでしまっていた。次の手を打つ必要があった。国連ルートである。

  私は再び「国際移住機構」のアンドレアス・ハルバッチ氏を訪ね、国連機によるムスタファ移送を改めてお願いした。彼はいろいろな担当部署に打診した結果、当初考えていたほど簡単ではないことがわかったようだった。ハルバッチ氏は言った。

「通常、国連関係者しか利用できない国連の飛行機で特例として運ぶにしても、問題はヨルダンの内務省がパスポートなしでこの父子を受け入れるかどうかです。まずこちらでヨルダン内務省側と交渉してみます。しかしあなたもヨルダン大使館や赤十字国際委員会で渡航のための証明書を取得できるように動いたほうがいい」

  彼は私のためにヨルダン大使館や赤十字国際委員会への紹介および依頼の文書を書いてくれた。

  ヨルダン大使館は結局、爆破後の所在地がわからなかったが、私はバクダッド市内にある赤十字のオフィスを訪ねた。担当スタッフのフランス人女性セシル・ポウイリー女史は、ムスタファのことをテレビ報道で知った日本の視聴者たちが救援のために寄金し、そのお金で少年をヨルダンへ移送し治療するという話に心を動かされ、赤十字から渡航許可書を出すように最善を尽くすと約束してくれた。それがあれば、国連の飛行機で運べる可能性は高まる。「国際移住機構」のハルバッチ氏が国連機への便乗を説得するにも大きな力になるはずだ。国連ルートでの移送の計画は現実味を帯びてきた。

  一方、アンマンのアブ・ファイサルからメールで一枚の書類が送られてきた。先日、送った陸軍野戦病院が出したムスタファの診断書に手書きの文書が書き加えられていた。助手に翻訳してもらうと、それはアンマンの陸軍病院の幹部による「ムスタファを治療のために当病院で受け入れる」という署名入りの走り書きだった。アブ・ファイサルは「ヨルダンの病院幹部から電話連絡しておくから、この文書を持ってもう1度野戦病院を訪ねサラーム医師に会うように」と指示していた。

  私は三度、ファルージャのヨルダン軍野戦病院へ向かった。サラーム医師に病院幹部の署名のある文書を示した。しかし、答えは前回と同じだった。「たとえ病院間で合意ができても、国境の入国管理局では私たちの権限は及ばない。パスポートがなければ無理だ」というのだ。私はこの軍病院ルートを完全に諦めた。

  そうなると頼れる唯一の方法は国連ルートだ。ファルージャからの帰り、私は「国際移住機構」のハルバッチ氏を三たび訪ねた。ヨルダン軍病院ルートがまったく見込みがなくなり、もう国連ルートしか方法がないと告げると、ハルバッチ氏は戸惑った表情をした。国連機に特例として便乗させることに障害があるのか、それともヨルダン内務省側との交渉がうまくいっていないのか、彼は、国連ルートは難しいかもしれないと言い出した。このルートも塞がれたら、ムスタファのヨルダン移送は実現できなくなる。なんとかハルバッチ氏を説得し動かすしかない。

「飛行機ならばアンマンまで短時間で移動できる。たとえヨルダン側で入国を拒否され引き返すことになっても、ムスタファへの肉体的な負担が軽くて済む。しかし陸路で50度を超える砂漠を数時間も走り続け、国境での交渉で何時間も待たせ、結局、同じ道を引き返すことになればムスタファは体力的にもたない。あなたはこの少年を殺す気か!」

  私は必死だった。私のあまりの剣幕にたじろいだハルバッチ氏は困った表情でオフィスへ戻った。10分ほどで待合室に戻ってきた彼は「もう1度、アンマンのオフィスに依頼してみた。だからあなたの方でも赤十字の渡航許可書をできるだけ早く取れるように動いてほしい」と答えた。

  今度は赤十字へ向かい、ポウイリー女史に再会した。女史は「赤十字の渡航証明書は出す準備をしている。まだ手続がかかるので、3日後に来てほしい」という返事をもらった。これならいけるかもしれないと思った。

2003年8月
土井敏邦
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