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Vol.7 国連ルートの挫折 8月19日、午後4時半ごろ、ホテルで横になっていた私は、ドスンという鈍い音とわずかな揺れを感じた。30分後、私を迎えてきた助手も、4時半ごろにどこかで爆発が起きたようだと言った。それがどこで起きたのかわからないまま、私は赤十字のオフィスを訪ねた。担当のポウイリー女史もまだその爆発についてまったく知らなかった。彼女は私に「赤十字で2人に渡航証明書を出せそうだから、4日後にもう1度訪ねてほしい」と言った。4日間バクダッドで待つことになれば、私の出国予定日は過ぎてしまう。つまりアンマンから日本への帰国日を延期せざるをえなくなる。しかし赤十字の渡航証明書はムスタファ親子を無事アンマンへ出すために不可欠な書類である。私は帰国の延期を決めた。 その脚で私は「国際移住機構」のオフィスへ向かった。赤十字の渡航証明書が出れば国連の飛行機による移送の可能性も大きくなる。すぐに渡航証明書が出る予定日を担当のハルバッチ氏に知らせなければならなかった。 しかし「国際移住機構」の入口付近の様子が、いつもと違い緊迫している。現地スタッフたちがあわただしく無線機で外部と頻繁にやりとりしている。助手が彼らに事情を訊いた。そしてすぐに私に説明した。「あの爆発は国連本部だったそうです」。 ハルバッチ氏のオフィスに通されたとき、彼は電話の対応に追われていた。電話が終わっても、オフィスを出たり入ったりして落着かない。30分ほど経ってやっと私と向かい合った彼は、爆発でたくさんの犠牲者が出ていて、特別代表もまだ瓦礫の下に埋まったままで負傷していることを説明したあと、「この混乱の中でムスタファ親子を国連の飛行機で運ぶ余裕はないと思う」と告げた。国連ルートの道も塞がれたのだ。
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