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Vol.8 幻の渡航証明書 残された道は、赤十字が発行してくれるはずの渡航証明書と「買った」パスポートを持って、陸路で国境を越える方法だけになった。パスポートだけでは危険が大きすぎる。素人目には本物と見分けがつかなくても、プロの入国管理局スタッフには判別されかねない。そのとき、父親エマドと共にムスタファも拘留されるかもしれない。たとえ拘留されなくても入国を拒否され、失意の中また50度を越す炎天下の中、バクダッドまでの550キロの道のりを引き返さなければならないことになる。そうなった場合、ムスタファが体力的に耐えられないかもしれない。彼の命を危険にさらすことになる。そうならないためにも、赤十字の渡航証明書は不可欠だった。それを手に入れるために、私は約束の4日後を待つ決断をした。それは私にとって、帰国の搭乗機を1週間延期する代金を支払い、26日に予定されていた仙台での講演もキャンセルせざるをえないことを意味していた。 4日後の8月24日、約束どおり私は赤十字のオフィスを訪ねた。しかし入り口の様子がいつもと違い閑散としている。建物の玄関ドアにはアラビア語の張り紙があった。助手が翻訳した。「しばらく閉館します」との知らせだった。門番のイラク人に訊くと、国連本部爆破事件の影響で、赤十字の外国人スタッフは業務を停止し、バクダッドを引き上げる準備をしているというのだ。私は唖然とした。赤十字の業務停止の判断は少なくとも2、3日前に出ていたはずだ。ポウイリー女史はなぜ事前に私へメールで連絡してくれなかったのか。赤十字からの渡航証明書が難しいとわかっていたら、私は4日間も無駄に待つことはしなかった。帰国日の延期も必要なかったのだ。国連本部の爆破事件によって、バクダッドの国際機関の外国人スタッフたちが身の危険を感じたことは理解できる。しかしだからといって、1人の少年の生命にかかわる業務を放棄して、しかも何の連絡もなく一目散に逃げてしまうことが許されるのか。私ははらわたが煮え返るような怒りを抑えられなかった。 もう残された道は「買った」パスポートで国境を越えるしかなかった。最悪の事態に備え、パスポートと共に、アブ・ファイサルがアンマンから送ってきた陸軍病院の受け入れを示す診断書を提出する準備をした。夕方、ムスタファの家を訪ね、両親に翌日25日の出発を告げた。10日ほど前に一度「出発した」こともあって、家族はいつでも出発できる心の準備はできていた。ただ私は、「国境で追い返される可能性もあるから、その覚悟はしておいてほしい」と念を押した。前回のような期待の後の失望を家族に再び味あわせなくはなかったからである。 さっそくタクシー会社を訪ね、アンマン行きの手配をした。米国製の4輪駆動車「GMC」を1台借り切ることにした。代金は250ドル。朝6時の出発と決まった。
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(c) Doi Toshikuni 2003- |