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Vol.9 国境越え

  早朝6時、予定どおり車は私のホテルにやってきた。外はまだ薄暗かった。私の荷物を乗せ、ムスタファの家に向かった。家の入口にある居間の床には親戚の子供たちが枕を並べて眠っていた。ムスタファはすでに身支度して長椅子に座って待っていた。父親のエマドは居間に眠っている子供たち一人一人に身をかがめて別れのキスをした。ムスタファたちを見送るために昨夜から泊り込んでいたエマドの姉が弟を強く抱きしめた。ムスタファが車に運び込まれ、いよいよ出発というとき、パジャマ姿の母親が座席のムスタファに駆け寄り、強く抱擁したまましばらく動かなかった。

  車は60キロほど走りファルージャに近づくと、高速道路を降りて一般道路に入った。ここから、60キロほど離れたラマディ周辺までの高速道路は外国人の乗った車が強盗にしばしば襲撃され、危険だからである。高速道路に戻ると、車は気温が50度近くになった土漠の中を140キロ近いスピードで突っ走った。しかし車の中はクーラーが効いて快適だった。

  ムスタファはじっと車窓の景色を見つめていた。彼にとって初めての長旅である。負傷して以来、病室や家に閉じこもりがちだったムスタファにとって何もかもが新鮮で物珍しいにちがいない。横に座る父親を「あれは何?これは?」と質問攻めにする。やがて父親エマドが大きなコラーンを広げ読み出した。するとムスタファは父親にならって、小さなコラーンを取り出し、声をあげて読み始めた。3,4時間も車に揺られているうちに、ムスタファは疲れ座席に横になった。

  ヨルダンとの国境が見えてきたのは正午近かかった。イラク側は2ヵ月前と違って米兵に代わりイラク人スタッフがパスポートや荷物のチェックをするようになっていた。エマドのパスポートは無事イラク側の検問を通過した。問題はヨルダン側の国境である。心配していた通り、検問所前にヨルダン側へ向かう車が長い列を作っていた。2ヵ月前、ここを通過するのに5時間もかかってしまった。50度を超える気温の中でムスタファを数時間も車の中で待たせることになれば、ムスタファの体力からして生命を危険にさらすことになりかねない。陸路での移送を最後まで躊躇したのはその不安があったからだ。頼みはヨルダン側の入国管理局スタッフの理解と温情だった。車を列の横に駐車すると、父親エマドと運転手はパスポートと、アンマンから送られてきたヨルダンの陸軍病院幹部による受け入れ署名入りの診断書を持って入国管理局のオフィスへ駆け込んだ。エンジンを止め冷房が効かなくなった車の中でムスタファはぐったりと横になっている。車の列はなかなか先に進まない。このままだと検問所へ行き着くのに数時間はかかる。「ムスタファ、なんとか耐えてくれ」と祈るような気持ちだった。

  30分ほどしてエマドと運転手が走って戻ってきた。エマドが私に向かってパスポートを掲げ、笑顔で合図を送った。入国許可のスタンプを押してもらったのだ。ムスタファの状態を説明し診断書を見せたら、職員は優先的にスタンプを押してくれたというのである。「やった!」。私はエマドや懸命に職員を説得してくれたという運転手と握手した。

  私たちの車は長い列を横目に走り抜け、荷物検査場の入口ゲートの先頭に出た。そこでは車の中の荷物を全部、検査台に出して係官がチェックする。1台にかかる時間が長いためにそこでも長く待たされることになる。私たちの車の番になった。運転手が係官に、ムスタファの事情を説明した。係官が車の中をのぞいた。座席のムスタファがその係官に「アッサラーム・アレコム(こんにちは)」と気丈夫にあいさつした。係官の目に、その愛らしい少年の顔と金具が突き刺さっている痛々しい左脚が飛び込んできたに違いない。検査を受けるために荷物を車の中から取り出していた私たちに係官は「もう、行っていい」と言った。私たちは荷物の検査を受けることなく通過した。

  結局、数時間はかかるはずの国境を私たちは1時間足らずで越えたのだ。車がヨルダン領に入ると、私はムスタファに「ここはどこかなあ?」と声をかけた。するとムスタファは「ここはヨルダンだよ!ありがとう」と叫んだ。一番心配していた国境を、これほど短時間で問題なく通過できたことが信じられなかった。まさにヨルダン側入管職員たちの温情のおかげだった。私たちといっしょにバクダッドを発った日本のNGOスタッフたちは、この国境を越えるのに6時間近い時間を要していたのだから、1時間ほどでの通過はまさに奇跡だった。

  国境からアンマンまでさらに400キロ、やっと街並が見えてきたのはすでに夕方の6時(イラク時間)を回っていた。父親エマドが「ほら、アンマンの街だよ」と寝ているムスタファを促したが、もうムスタファには車窓の景色を楽しむ体力も気力も残っていない様子だった。ちょっと外に目をやると、また座席で眠ってしまった。無理もない。長い治療生活で体力が弱りきっていた8歳の少年が、この炎天下の中、12時間を越す車の旅に耐えたのだから。

2003年8月
土井敏邦
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