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Vo.10 ヨルダン病院での手術 アンマン市の街外れにあるホテルに落着いた25日夜、ヨルダン側で病院の手続きに奔走してくれていたアブ・ファイサルがホテルのムスタファ父子を訪ねてくれた。初対面だったが、同じイラク人同士、彼らは旧知の友人のようにすぐに打ち解けた。アブ・ファイサルはムスタファが治療を受ける病院を2つ提示した。1つはイラクの野戦病院との接触などですでに受け入れを了承しているフセイン王陸軍病院、もう1つは民間のヨルダン病院だった。前者は国立病院で治療費は安いが、アンマンの郊外にあり、しかも陸軍病院であるためチェックが厳しく、通院や訪問が不便という難点がある。後者は民間の病院のために治療費はいくらか高くなるが、病院の出入りにはまったく支障はなく、ムスタファの脚の治療に必要な整形外科と神経科の分野でヨルダン最高の医師がいるという。私たちは後者のヨルダン病院を選んだ。 アブ・ファイサルはさっそく、翌日の午後、ヨルダン病院の専門医の診察を受ける手配をした。ホテルからタクシーで15分ほどのヨルダン病院で着くと、アブ・ファイサルと共にムスタファの治療先探しのために動いてくれたザイナブ女医が私たちを待っていた。フセイン王陸軍病院に勤務する彼女が、イラクのヨルダン陸軍野戦病院ルートでムスタファをヨルダンへ移送しようと奔走してくれていたのをこのとき、私は初めて知った。ザイナブ医師もまた、アブ・ファイサルと同じくイラク人だった。バクダッド大学医学部を卒業したあとバクダッドの病院に勤務していたが、数年前ヨルダンへ渡ったという。彼女がなぜムスタファ救援のためにこれほど熱心に奔走してくれたのか、その訳が分った気がした。祖国を攻撃する米軍の爆弾で理不尽に傷ついた少年の惨状を、彼女は同胞として、また1人の医者として見過ごすことができなかったにちがいない。ムスタファの病院探しに奔走してくれたゼイナブ医師に礼を言うと、彼女は私にこう答えた。 「こちらこそお礼を言います。同胞を支援してくださってありがとうございます」 そのゼイナブ医師も整形外科や神経科の分野では最高の医師がいるこのヨルダン病院での治療を薦めた。彼女はムスタファ父子を整形外科の権威、ムスタファ・サーレム医師に紹介した。大柄で温和なその初老のそのサーレム医師は事情を聞くと、さっそく部下の医師や看護婦たちに患部感染の検査、X線写真の撮影手配を命じた。X線写真が出来上がると、患部を示しながら、サーレム医師は私たちにこう説明した。
ムスタファ父子も私も、この日はとにかく専門医に会って診察をしてもらい、今後の治療のスケジュールを話し合うという程度しか頭になかった。だからいきなり、「今日、手術をやろう」という医師の話に私たちは戸惑った。いちばん衝撃を受けたのはムスタファ本人だった。サーレム医師の「手術」という言葉に、ムスタファが突然泣き出した。「明日にして」と泣きながら訴える。しかし医師は「今は夏季で、病室が混んでいる。今夜は幸い、個室が1つだけ空いているが、明日になれば病室があるかどうかわからない。そうなれば手術はいつになるかわからない。できるときにやった方がいい」と、ムスタファと父親エマドを説得した。しかし手術のための心の準備が出来ていないムスタファは、頑として受け入れない。父親エマドは医師の判断に従うしかないと、その夜の手術を決断した。 個室の病室に入ると、血圧測定など手術のための検査が始まった。それが手術の準備にちがいないと感じ取ったムスタファは服を脱ぐことを拒んだ。そんな息子をエマドは「ただ検査するだけだよ」と言い含めて手術着に着替えさせた。いよいよ移動ベッドに移され手術室に運ばれるとき、ムスタファはこれから手術が始まるのだと悟ったのか、「手術はいやだ」と泣き出した。看護婦は「手術ではないのよ。ただX線写真を撮りにいくのよ」と言い聞かせるが、これまで8回も手術を受けてきたムスタファには、そんな嘘はもう通用しない。 手術待合室で、いよいよ麻酔注射を打つ段になると、あらん限りの声を張り上げて泣き叫び、暴れ出した。これほどヒステリックになったムスタファを見るのは初めてだった。これまで繰り返されてきた手術への恐怖と痛みが8歳の少年に与えてきた心の傷がどれほど深いものであるかを私は目の当たりにする思いだった。父親エマドと手術着姿の医師たちが押さえ込んで、強引に注射を打った。すると1分ほどであれほど大騒ぎしていたムスタファが急に静かになって眠りについた。父親エマドがそのムスタファの額に接吻をすると、医師たちはムスタファが乗った移動ベッドを手術室へ運んだ。私はカメラでその後を追おうとしたが、医師たちが私を制止した。控え室に戻ると、独り残ったエマドが手で顔を覆っている。声をかみ殺し、エマドは泣いていた。あれほど嫌がる息子に何度も手術を受けさせなければならない不憫さ。あの時、妻の実家に疎開させてさえいなければという自責の涙のようにも見えた。 手術中、カフェテリアのベランダで椅子に座りながら、エマドは独り祈りを捧げていた。1時間半ほどして控え室に戻ると、医師たちはすでに手術室から戻っていた。サラーム医師は父親のエマドに手術の経過を説明した。 「骨折していた大腿骨を固定していた金具をはずし、患部の壊疽組織を切除したのち、骨折部分の周囲に抗生物質を注入した。将来は、補助器具をつけて歩けるようになるかもしれない」という医師の言葉に、それまで不安で沈みこんでいたエマドの表情がぱっと明るくなった。「ありがとうございます、先生!」。エマドは何度もサラーム医師に礼を言った。 手術室から戻ってきたムスタファは意識が朦朧とするなか、駆けつけた父親を抱きしめて放さない。そんな息子の髪をなでながらエマドは、「これで脚がよくなるんだよ」と優しく言葉をかけ、手術の労をねぎらった。ムスタファは左脚の感触がいままで違うのに気づいた。左手を左太ももに伸ばしてみると、金具がない。エマドが手術で取り外した金具をもってきて、ムスタファに見せた。ムスタファは泣きべそをかきながら、その金具の袋を放り投げた。それが今までずっと突き刺さっていた金具であり、それが取り外されたというのが実感できないようだった。 その夜、エマドはムスタファの部屋に泊まりこみ看病した。ムスタファは一晩中の吐き気に襲われ、付き添いのエマドもほとんど眠れなかった。吐き気は翌朝になってもおさまらなかった。医師は念のためにもう1日病院に留まらせようとしたが、すでにその日どの病室も満員だった。いったんホテルに引き上げ、容態がこれ以上悪化するようなら、緊急治療室に連れてくるようにと医師の指示を受け、ムスタファ父子はホテルへタクシーで戻った。その車中で、ムスタファはまた嘔吐した。
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