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日々の雑感 344:
「YIDFF 山形国際ドキュメンタリー映画祭2015」を観て(2)

「YIDFF 山形国際ドキュメンタリー映画祭2015」を観て(1)

2015年10月11日(日)

トトと二人の姉妹

Toto and His Sisters
ルーマニア/2014/93分
監督:アレクサンダー・ナナウ

山形国際ドキュメンタリー映画祭2015インターナショナル・コンペティション部門上映作品

 山形へ来る前から、あるドキュメンタリー映画関係者から「ぜひ」と薦められていた映画である。ルーマニアの貧民街で暮らす10歳の少年トトの家庭環境は劣悪だ。父親は行方不明、母親は麻薬密売で刑務所に服役中。残されたのはトトと17歳の長姉と14歳の次姉。3人で一生懸命に掃除し片付けた新居のアパートも、麻薬常習者である母の兄弟たち、つまり叔父たちとその麻薬仲間の男たちが押しかけ、麻薬の巣窟とされてしまう。ヤクにふける男たちが占拠する部屋で居場所を失い小さくなっているトトと次姉。長姉はやがて男たちに誘われ麻薬に手を染めていく。その生活に耐えられず、トトと次姉は、保護施設に居場所を求める。そこでトトはヒップホップ・ダンスを学び夢中になっていく。次姉も学校を中退し遅れた学習を必死に取り戻そうとする。一方、麻薬常習者たちの溜り場となったアパートは麻薬捜査官に急襲され、叔父たちは一網打尽となり、長姉も逮捕される。やがて「もう麻薬には手を出さない」「学業に戻る」ことなどを条件に出所した長姉は、一旦、妹弟と同じ保護施設に入ったが、厳しい規律に縛られる施設に馴染めず、「家に服を取りに行く」と言って出たきり施設に戻ってこなかった。しばらくして妹が自宅を訪ねると、長姉は再び麻薬づけになり、ゴミ屋敷のようなアパートのベッドで病に臥せっていた。救急車で運ばれた病院で、彼女は医者から「エイズ陽性」を告げられる。

 トトと2人の姉の生活に密着したその映像は、「なぜそういうシーンが撮れたのか」と観る者を驚かせる。例えば、アパートの部屋に集まって、朦朧とした表情でヤクの注射を回し打ちする男たちや、その片隅で、トトと次姉が所在なく時を過ごす姿が映し出される。ラリっている男たちや長姉はその現場が映画として公になれば逮捕されるとことをわかっているのに、なぜ撮影を許したのか。映画制作者たちはその男たちの身の危険やトトの2人の姉たちに及ぼす悪影響を考慮にしなかったのか。私が最も不可解だったのは、長姉がエイズに冒される前に、なぜ彼女に救いの手を差し伸べなかったのかということだ。確かに「長姉のエイズ感染」という結末は、この映画でトトの家族の悲惨さを浮き彫りにする劇的な要素となっている。監督が長姉に救いの手を差し伸べていたら、このドキュメンタリー映画はこれほど観る者に強い衝撃を与えなかったのかもしれない。だから穿(うが)った見方をすれば、劇的なドキュメンタリー映画にするために映画制作者たちはトトと姉妹たちを敢えて救おうとはしなかったのではないか。つまり監督は子どもたちの人生よりも、「衝撃的なドキュメンタリー映画」の制作を優先させたのではないかと疑ってしまうのである。もちろん「ドキュメンタリストは“観察者”“記録者”であり、“慈善活動家”ではない」と彼らは反論するだろうが。
 この映画を観終わった後、私は、以前ピューリッツァーを受賞した「ハゲワシと少女」の写真を思い出していた。受賞後、賞賛の一方、そのカメラマンに「あなたは写真を撮る前に、今にもハゲワシに襲われそうな、飢餓でやせ細った少女をなぜ救わなかったのか」という非難が沸き起こった(注・この写真を撮影した南アフリカのカメラマンはその後自死した。原因は不明)。

 『トトと二人の姉妹』は確かに優れたドキュメンタリー映画だ。しかし同時にこの映画は、「なぜ、誰のためにドキュメンタリー映画を撮るのか」「“ドキュメンタリスト”である以前に、私たちはまず“一人の人間”でなくていいのか」という問いを私たちドキュメンタリストたちに投げかけている。作り手はただ「悲惨な現実」を観客に突き出すだけでいいのか。撮られる対象を、作り手はただの「被写体」「映画の素材」として映画制作に“利用”するだけでいいのか。撮られる対象(人たち)とそれに連なる人たちが、撮られ映画にされることで状況がよくならなくてもいいのか、と。

作品紹介:トトと二人の姉

ドリームキャッチャー

Dreamcatcher
イギリス/2015/98分
監督:キム・ロンジノット

山形国際ドキュメンタリー映画祭2015インターナショナル・コンペティション部門上映作品

 その問いに対する答えの一つを暗示しているように思えたのが、映画『ドリームキャッチャー』だ。
 この映画の主人公ブレンダはアメリカ・シカゴで4歳の時に親戚から性的虐待を受け10代の頃から25年間、売春婦として生きてきた。薬物中毒にもなった。その彼女が今、同じ問題を抱えた売春婦やレイプなど性暴力の記憶に苦しむ少女たちの告白に耳を傾け、慰め励まし、支援の手を差し伸べる。彼女のその献身的な活動は、かつての同じ境遇にあった者としての、女性たちや少女たちの“痛み”への共感が原点にある。だからこそ、その言葉は相手の心に染み入り揺さぶる。それはまた映画を観る者たちにも深い感動を呼び起こさずにはおかない。これまで数回の山形映画祭の中で、私は初めて泣いた。

 ブレンダを突き動かしているのは何なのか。監督のキム・ロンジネットが語るように、「25年に及んだ売春生活の終盤、ブレンダが路上で少女を売春へ誘い、ポン引き紹介していたことへの“罪の意識”」も起因の一つなのかもしれない。ただ、かつて韓国の元「慰安婦」たちの証言を記録した体験を持つ私には、彼女の活動が、自身が長い「売春婦」生活の中で踏みにじられてきた“自尊心”を取り戻し、自らの“存在価値、生きる意味”を確認するための営為のようにも見えるのである。
 このドキュメンタリー映画は、同じくアメリカ社会の最底辺で身も心も傷だらけになって生きる多くの“弱者たち”を励まし、“生きる力”を与えるに違いない。アメリカの“弱者たち”だけではない。さまざまは“傷”や“痛み”を背負って生きる、映画を観る私たちにも“生きる力”を注ぎ込んでくれる。
 主人公のブレンダ自身もまた、この映画に出演することで自分の活動の意味と自分の持つ“力”、存在価値を改めて再認識し、それが新たな彼女の自信、尊厳の回復につながっていったに違いない。それもドキュメンタリー映画の“力”だと思う。

作品紹介:ドリームキャッチャー
公式サイト:Dreamcatcher

「YIDFF 山形国際ドキュメンタリー映画祭2015」を観て(3)
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