Webコラム

日々の雑感 408:
長谷川健一さんの死

2021年10月24日

 飯舘村の長谷川健一さんが逝ってしまった。
 昨日朝、福島取材中の友人からの電話で知った。
 甲状腺ガンが見つかったのが今年2月、それまで、あんな元気だった長谷川さんがどんどん弱っていく姿を見るのは辛かった。でも、まだまだがんばれると信じていた。「こんなに早く……」。知らせを聞いて絶句した。
 同じ歳だった。私が還暦を迎えるとき、長谷川さんは飯舘村の綿津見神社の「還暦祭」「厄難消除祈」の札を贈ってくれた。今も我家の玄関を飾っている。
 この人がいなかったら、私は飯舘村、福島の取材を10年も続けられなかった。
 映画『福島は語る』の主人公、杉下初男さんは今年8月にガンで死去、そして今度は長谷川さん。大切な恩人が次々と去っていく……。私にできる唯一の恩返しは、“フクシマ”を記録し、残すこと。長谷川さんの無念さを引き継ぎ、伝えていくこと。

 10年前に書いたコラム「飯舘村の酪農家・長谷川健一さん」を再録する。

日々の雑感 219:
「飯舘村の酪農家・長谷川健一さん」
2011年7月13日(水)

 「飯舘村(いいたてむら)の酪農家・長谷川健一さん」は3・11以降、NHKの「ニュースウォッチ9」や民放のニュース番組など数々のテレビ番組や新聞記事に登場し、村長の菅野典雄氏と共に“飯舘村の顔”になった。多くのメディアが長谷川さんを取り上げるのにはいくつか理由がある。
 まず彼は、他の多くの村民のようにテレビや新聞に出ることを嫌がったり恥ずかしがったりしない。むしろ飯舘村村民としてまた酪農家として主張したいこと、伝えなければならないことを国民や県当局、政府に向かって発信するためにテレビや新聞などメディアは最も有効であり、利用価値があることを熟知している。
 また長谷川さんは、自分の思いや考えを言語化し表現する術に実に長けている。メディアはどういう言葉を求めているか、またどう語れば聞く人の心に届くかを感知し、話す内容や言葉を瞬時にしかも適格に選んでいるように見える。それは“天性の才能”なのかもしれない。しかもそれが長谷川さんの心底から湧きあがってくる熱のこもった誠実な言葉だから、聞く人、視聴者の心に響き、動かす。それに、伝える“声”がいい。決して美声とはいえないが、低音のだみ声が相手の心に届く響きを持っている。しかも彼の福島弁のイントネーションがいい。聞く人の心を包み込んでしまうような温もりがあるのだ。
 いや言葉だけではない。この人の飾らない誠実で純朴な人柄こそ、多くのジャーナリストを引き付ける最大の魅力なのかもしれない。飯舘村の息を飲むように美しい自然のなかで、しかも牛を生かし牛に生かされながら暮らす、人間らしい生活環境が、58歳になっても失わない純朴さ、誠実さ、温かさを彼の中に育んできたのだろう。
 また奥さんの花子さんがすごい人である。
 長期間に渡って飯舘村の取材を続ける私たちフリージャーナリストにとって、いつも笑顔で迎え入れてくれる長谷川家は、取材の疲れを癒す“溜まり場”になっている。その大きな要因は花子さんの明るさと懐の深さである。
 「食事、食べていったら?」「構わないから泊まっていきなさい」と気軽に声をかけ、私たちを迎え入れてくれる。ホテルに宿泊して長期取材を続ける経済的な余裕のない私たちフリージャーナリストにとって、実にありがたい。実際、この長谷川家の好意に甘え、私をはじめ、長谷川一家と親しくなった仲間のジャーナリストたちが入れ替わり立ち替わり押しかけ、お世話になっている。2人のジャーナリスト仲間が2日間泊めてもらった翌日、今度は次のジャーナリストが、といった時もある。
 一番大変なのは世話をする奥さんの花子さんだ。しかし彼女は嫌な顔ひとつせず、いつも笑顔で迎え入れてくれる。いくらなんでも連日の宿泊客では大変だろうからと遠慮する仲間のジャーナリストに、「どこにいるの? 泊まるとこあんの? 2人も3人も同じだからウチおいで」とわざわざ電話してくれる。
 「どうしても明日まで取材を続けたい。しかし泊まるところがない」と困り果てている時にかけてもらえるこんな言葉がどれほどありがたいことか。私やジャーナリスト仲間は花子さんのそんな思いやりと優しさに、お礼の言いようもないほど助けられている。彼女もまたこの飯舘村で生まれ育った人である。
 3月11日以前の長谷川家は、健一さん、花子さんの夫婦と健一さんの両親、長男と嫁と長女、そして次男という4世代8人が暮らす大所帯だった。しかし今、両親は千葉の弟の家に避難し、長男の家族は飯舘村より放射能の線量の低い福島市内に移った。現在、大きな家に暮らすのは、夫妻と次男の3人だけである。長谷川さんは言う。
 「今までは家の中をにぎやかに孫が走りまわり、それをみんなで笑ったりしていた生活をしてきた。それが一瞬でなくなった。これからは8人家族が1つ屋根の下で過ごすということはかなり難しいだろうなとは思う。
 だから原発、放射能というのは我われからすべてのものを奪い去ったという感じがするんだよな。家族関係、牛、土地、そういうすべてのもの。この地区の絆さえも壊れるわけだから」
 「安全宣言が出され『もういいですよ』と言われても、年配の人は戻ってくるだろうけど、若い人や子どもは戻っては来ないと思う。俺はここへ戻ってくる。しかし息子ら夫婦を戻そうとは思ない。たとえ安全宣言が出されても、線量がゼロになるわけではないんだ。それに飯舘村は75%が山だ。そんな所でどうやって除染をやるんだろう。やはり自分たちの生活の線量が下がらないとだめだ。ゼロになるわけない。そんなところで子育てなんかやるべきではないと俺は思う」
 「おそらく飯舘村はもうだめだ。山の除染はどうやるんだ。方法は何もないだろう。だったら、国に要請して、飯舘村をよそに造ろう、それかしかねえぞ。そうすれば孫、子どもなど元の家族構成だって作ることも可能だ。今のままでいったら、飯舘村は村民が戻っていいということになっても、若い人、子どもはいない村になるよ。そんなの、もう耐えられねえべ」
 30数年続けてきた酪農の仕事を失った長谷川さんは今、新たな生きがい、生きていく目標を模索している。
 「なんで俺らがこんな目にあわなくちゃなんねえだ。日本の中で実際こういうことが起こっているんだよということを俺の口からみんなに知らせたいと思う。それはやんなくちゃだめだと思う。ようやく酪農が順調になり始めて、ああ、これからちょっと楽ができるかなあと思った矢先だった。それが天から降ってきたようなこんな出来事、事故によってすべてが狂うわけだから。こういう思いを日本全国のみならず世界にわかってほしいと俺は思う。俺は「原発反対」だの「原発賛成」だの言わねえ。ただ今回の東電の原発の事故によって、こういうことが日本のここで起きているんだということをみんなにわかってもらいたいという気持ちはある」
 「今の俺に出来ることは何かなあと、ずっと考えたときに、やっぱり自分たちの現状を当事者としてみんなに知らせること、今俺に出来ることはこれしかねえのかなあ、そう思う」
 7月5日、長谷川さんは早稲田大学の大教室で、300人を超える学生たちの前に立った。自分が撮影した写真をスライドで映し出しながら、飯舘村と家族、そして酪農家の自分に起こったことを語った。熱のこもった長谷川さんのその語りには、「どうしても伝えなければ」という強い思い、「この現実をわかってくれ」という叫びのような熱い思いがこもっていた。

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