2022年11月21日
新宿 K's Cinema アフタートークより
川上泰徳氏:元朝日新聞中東総局長。1994年から2014年の21年間、中東記者・特派員として現地を取材。アラビア語で取材できる数少ないジャーナリスト
私も土井さんの映画作りと同じで、人にインタビューする、証言をとることに意味があると思ってやってきました。長くパレスチナを取材してきたのですが、そういう意味で、この映画にはいろいろな証言が出てきて、自分が知らなかったことがあると思いました。
私は第2次インティファーダのころエルサレムに駐在していましたが、現場にいて、「イスラエル軍はいったい何を考えているのか」ということがわからないことがありました。この映画で、「相手が怖がっているのがわからない」と元兵士が言います。自分はイスラエル兵で銃を持っているくせに、自分の方が怖いと思っている。この映画を観て、「ああ、そうか。イスラエル兵は自分たちがあたかも弱者のように思っているんだ」というのがわかるんですよね。そういうゆがんだメンタリティーが証言として出てくるという発見がいくつもありました。
(Q・13年前の『沈黙を破る』と、今回の『愛国の告白』との違いありましたか?)
状況の変化もかなりあります。パンフレットの中にも書きましたが、13年前の『沈黙を破る』の舞台は、第二次インティファーダのころで、パレスチナ側による自爆テロなどで、イスラエル側の被害がかなり出ていました。その中で、イスラエル軍が「対テロ戦争」としてヨルダン川西岸やガザに入っていく。だけど、パレスチナの占領地ではパレスチナ人の民間人を相手に武力行使をすることになり、そこには兵士として葛藤があるわけです。『沈黙を破る』では占領がイスラエル社会のモラルを崩しているということを彼らは強調していました。
しかし、今回の映画で「沈黙を破る」のメンバーが言っていますが、彼らはパレスチナに目を向けるんですよね。自分たちと同じ人間としてパレスチナを見て、イスラエル社会だけの問題ではないんだと気づく。これが13年後のグループとしての活動の成果だと思うんですよ。
それはなぜかというと、パレスチナはもはやイスラエルにとって脅威ではないんですよね。インティファーダは終わっているし、自爆テロもない。なのに占領はさらに激しくなっている。ガザ攻撃のように、ガザの民間人がどんどん死んでいくようなことを行っている。それに対し、兵士として国を守ると思いながら、「なぜこんなことをしなければならないのだ?」という葛藤がさらに広がっている。
そういう状況の変化、それから時間が経って自分たちの足元を見たときに、結局、パレスチナ人に目を向けなければ自分たちの生活も正常にはならないということを感じる、そういう彼らの運動の成長、発展というのが感じられる。それをよく捉えていると思うんです。13年前の『沈黙を破る』から比べると、その辺が違うというのがわかります。
(Q・特派員など組織ジャーナリストは、事件は伝えるが、日常的にじっと現場を見ていないと見えない“構造的な暴力”を描くのは難しいですか?)
私は1994年からカイロに駐在しながらパレスチナ側のオスロ合意や自治の始まりを見てきました。それから2001年から2002年、イスラエル・パレスチナ関係が一番激しい時に、特派員としてエルサレム駐在となり、パレスチナにも行きました。
新聞社の特派員は事件があろうがなかろうが、現地にいます。そういう意味で日々日常を見ています。記事はもちろん事件が起こったときにしか出ないんだけど、しかし取材は日々行うという感覚です。
むしろ「フリーのジャーナリストは事件が起こると、ばっと来る」というのが私の感覚でした。私は特派員として、週に何回もパレスチナ、ガザに入っていましたから、そういう意味ではパレスチナの日常を見ているという感覚がありました。
(Q・21年間の中東での特派員体験は自分にとって何だったと思いますか?)
私は中東ばかりやっていた特派員でした。5回、中東に駐在しているんです。21年間、ほとんど日本に戻っていなかった。だからちょっと新聞やテレビの特派員としては特殊なケースだと思います。
それでも私にとっても「中東」というのはわからないところなんです。文化も違うし、戦争や平和に対する感覚は全然違う。
そういう中で、例えば「なぜパレスチナ人は自爆をするんだろう」という問いを立てます。自分がわからないことについてです。ある青年が自爆をしたら、その家族のところへ行って、どういう青年だったかを聞き、遺書などを見せてもらいます。そのような取材の中で自爆をしそこねてけがをし、イスラエル軍に拘束されて、イスラエル側の病院に入った若者がイスラエルのテレビのインタビューに出たことがありました。それを見てすぐにイスラエル軍に連絡して、「私もインタビューしたい」と言ったら、「本人がいいと言ったらいいよ」と言われて、そのまま車で病院へ行きました。その青年はジェニンで自爆しようとして失敗して拘束されたのですが、怪我をしていたので病院で治療を受けていたのです。
病院でベッドの手錠でつながれている青年に話を聴くわけです。
「どうして自爆をやったのか?」と自爆に至る経緯を聴いていくと、決して過激な思想を持っているわけではない。本人はイスラエル軍に破壊されたジェニン難民キャンプの出身ではないが、「イスラエル軍がジェニンの難民キャンプを破壊したのを後に見て、破壊の酷さに、表現できないもの、怒りというのかな、肯定できない、これが現実だと信じられないという思いになって、自爆を手配する組織の人間をたどって、自爆のベルトをもらった」と話しました。
「そんな状況はみんな見ているのに、なぜあなただけ、そういうふうになったんですか?」と聞くと、「私は耐えられなかった。我慢する力が足りなかったです」と言いました。それを聞いて、「自爆」というのは、イスラエル軍の攻撃による直接の被害者よりも、その周囲にいる人間で無力感を感じる人間が起こす可能性があると分かりました。パレスチナ人の救急隊員として自爆の現場に行く男性が自爆したケースもあります。イスラエル軍の圧倒的な力に対して、自分の無力感、「自分が肯定できない現実があるのに、何も自分はできない」と思う人が自爆に向かうことがあるということです。
攻撃を受けた家族は生き延びるために必死です。ところがそれをそばで見ている人々が無力感を感じて、「何かしなければいけない」と思うが何もできないという葛藤の中で自爆する。それはある種の自殺ともいえるでしょう。この現実に生きていられないという。
このようなパレスチナ人の自爆に限らず、私はまず具体的な問いを立てて、多くのインタビューすることでさぐっていく手法です。
(Q・川上さんの著書『シャティーラの記憶』はレバノンのパレスチナ難民キャンプの住民たちへの証言ドキュメンタリーですが、『愛国の告白』も証言ドキュメンタリーで、“言葉の力”に重きを置いている。川上さんの“証言ドキュメンタリー”にどういう考え方をもっているのか?)
やはり当事者の“言葉”ですね。その“言葉”を聞いて、ジャーナリストとして伝える、しかし、中東で聞く言葉は、とても消化できません。家族を虐殺されて一人残った人の話を聴いたりするわけですよね。そんな話を聴いて、「こんなことが、この世界で起こっていますよ」ということを伝えるわけですが、言葉の重さに対して、自分が伝える力の非力さをいつも感じます。
この『シャティーラの記憶』の本でも、70年前にパレスチナを追われた第一世代から、解放闘争を戦った第二、第三世代、サブラ・シャティーラの虐殺で家族を失った世代、そして今の若者世代など150人ほど話を4年ぐらいかけて聴きました。この本に登場するのは85人くらいです。証言だけでパレスチナ人を描きたいと思ったんです。
彼らの経験を彼らの言葉で伝えたいと思います。向こうに3カ月くらいいて、残りは日本にいて書くんですけど、日本みたいな平和のなかで、独りで彼らのインタビューを起こしてもなかなか書くことができませんでした。彼らの証言から彼らが体験した状況に自分をもっていかないと、彼らの言葉を日本語で再現できないんです。ただし、日本にいると独りで書いていても、それができないんですよ。昼間はスーパーで買い物したり、友達のカフェに行ったり、テレビのバラエティーを見ていたりすると、夜になって一人で籠ってテープでインタビューを聞き返したりしても、なかなか文章が書き始められないですね。日本へ戻って半年くらいやったんですが、これは住んでいる場所が違うなあと感じて、エジプトの仕事場に2か月ほどこもって書いて、またシャティーラへ行ってインタビューを続けるということをやっていました。
そういう意味で証言というのは言葉の重さ、話を聞いた人が生きていた状況から出てくる言葉の重さですね。ジャーナリストというのは、体験した人から言葉を受けるわけですよ。言葉を預かる、与えられる、それを自分の言葉でアウトプットする。これはすごく骨が折れる仕事だといつも思います。
この『愛国の告白』でも、「沈黙を破る」のメンバーが「兵士としてやってきたことをcitizen(市民)として責任をとる」という。citizenとして責任をとるということはどういうことかなあと考えるわけですね。ガザを攻撃した兵士が、「私がいい兵士であることと、いい国民であることを両立させるために、沈黙を破るんです」という。「両立させるというのはどういうことかなあ」と思う。そういうふうに、言葉一つひとつが気になる。彼らが言葉を発する裏にある体験とは何だろうとか。その体験というのは、この映画ででてくるイスラエル軍によるパレスチナ人の家宅捜索の現場映像に出てくる、子どもがたくさんいる家族のところに入っていって、家族をたたき起こし、写真撮る、子どもたちが泣き叫ぶような、そういうことを彼らはやっている。それについて罪悪感がある。しかしそれは兵士としてはそれが任務だと言われる。そこに葛藤がある。「市民としてこういうことをしてはいけない。しかし兵士としては命令されたからしなければいけない」という葛藤の中で、市民として責任を取るという。責任をとるために兵士としてやったことをこうやって証言していると。その意味というのをすごく考えますよね。だからそういう意味で、言葉がすべてだと思っています。ジャーナリストは話し手の経験から出てきた生きた言葉を相手にしているわけですから。
(最後に伝えたいことは?)
第2次インティファーダの時にエルサレムに駐在していました。2002年春、イスラエル軍がベツレヘムに侵攻して聖誕教会を包囲して攻撃した時があって、その現場に行きました。エルサレムからベツレヘムまで車で15分くらいで行けます。そこに入って日本に記事を送って、ベツレヘムから出てエルサレムに戻ったとき、車から見ていると、イスラエル人が乳母車を押して歩いていました。店で買い物をする人もいました。ついさっきまで銃撃によって人が死んでいるような場面を見たのに、10分ほど車で走ったら、世界が違う。つまりイスラエル人とパレスチナ人が乖離している。すごい距離があるんです。
「沈黙を破る」のメンバーが占領地で兵士としているときにはパレスチナ人に目が向かなかったと言います。「沈黙を破る」にかかわってパレスチナ人に目を向けたとき、自分たちの生活が普通でいられないということに気付く。私が経験したパレスチナ人とイスラエル人の乖離、10分前にはバンバン撃ちあう戦場にいたのに、10分くらい車で走ると乳母車を押しているお母さんがいる――この乖離に彼らも気付いて、こんな生活を続けられないと思うはずなんですよね。この映画では、それをちゃんと描いている。「沈黙を破る」のスタッフたちはそこの気づくわけです。自分たちの生活っておかしい。「5~10キロ行けば占領があるのに」という気付きはすごく大切だと思うんです。私らの日常の中にもありますよね。自分の中しか見ていない。ところがちょっと脇を見たら、コロナの中で困窮しているシングルマザーの人たちなんかいるわけじゃないですか。
この映画は自分のすぐ近くに「普通でないことがある」ということに気付くということの大切さを教えてくれていると思いますね。
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